接客業は卒業したよ! あけすけビッチかんどー日記!

接客業歴15年のかんどーが綴る、あけすけな日記。人生はチキンレースです。一歩引いた方が負け。たまに小説を書きます。お問い合わせはsaori0118ai2あっとまーくやふーめーるまで。

わたしの「自殺装置」が外れたきっかけ

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こんにちは。仕事は接客業、趣味はランニングと読書の貫洞です。(今日は旅ブログはお休みです)



今日のお題「わたしの自殺装置が外れたきっかけ」
※こんなお題はありません、あと闇注意




わたしは定期的に死にたくなるのですが、今まで死にたくなった理由はすべて「他者との比較で自分に価値が無いと思いつめて」死にたくなっていました。


なんとかならないものかといろいろ考えて、体内バランスとかホルモンバランスとか、医学の方向から攻めてみたりもしました。具体的には有酸素運動をするとかピルを飲む、などです。かなり努力したのですが、やっぱり死にたい気持ちが取り去れず、2015年2月にまた死ぬ決意を固めてしまいました。


36歳にもなって、親の育て方を呪ったり(わたしは女の子は勉強しなくていいという環境で育ち、海外に行く経験も積めないまま社会に一人で出ていきました)、今さら考えてもどうしようもない学歴コンプレックスに押し潰されて消えたくなったり、わからないことが重なると癇癪をおこしたり、もう散々でした。


取り急ぎの対症療法として「癇癪を起こしそうな場所には行かない」「満員電車に乗らない」「知らない人間となるべく会わない」などで、突発的自殺をしないように気をつけてきました。いつ爆発するかわからない「自殺装置」を自分の体からはずしたかったんです。



「自殺装置」は、なかなか外れてくれませんでした。






一番つらかった時期のことを思い出すと、今でも恐怖で涙が出てきます。自分が何者にもなれないと悟ったとき。そして、一番最近だと、社長になってもちっとも楽しくないことを思い知らされたとき。


特に、社長になってからは人と会わないわけにいかないので、グサグサと刺されながら毎日生きていました。

たくさんの言葉や態度によって「やばい、わたし何もできない」と気づかされたときの足元ガラガラ感はすごかったです。

 

どんどん仕事が同業他社に取られていく。自分がやりたいと思っていた仕事は絶対に手の届かない場所にあって、それをつかむには圧倒的に「政治力」が足りない。しかもその「政治力」は魔物で、少しそれを使おうとすると、嫌なことがいくつもいくつも自分に返ってくるんです。上手にできる人じゃないときつい。カネ無しコネ無しには厳しすぎる世界でした。真面目なだけではどうにもなりませんでした。


追い打ちをかけるように、いくつものつらい言葉が矢のように降ってきました。


「女性社長なんだったら、スタッフの誕生日覚えてカード配るとかしなよ、⚪︎⚪︎社長を見習えよ」

「現場のことがわからないのに偉そうなこと言わないでくださいよ」

「(写真入りの)名刺、相当修正してるでしょ~、実物ひどいね(笑)ガッカリした」

「40過ぎて甘いこと言ってんじゃないよ(過ぎてません)」


下2つはまあ、ギリギリセーフなのですが、上2つは本当にきつかったです。っていうか、この言葉たちによってわたしは自分が解体された気持ちになったのです。


・社長としての器が無い
・(現場の)仕事ができない
・女としての魅力は皆無
・ADHDの悪いところ丸出し


あ、もう何もないな。こんなんなら他の人が社長をするべきだし、わたしは消えるべきだ。ストンとすべての言葉がハラオチして、わたしは死ぬことを決めました。「安楽死」「苦しまない 死に方」そんな検索ばかりしていました。

誰にも本音は見せなかったし、見せたところで「愚痴って楽になったぁ?」とか軽い言葉で受け止められるのが嫌だったから、とにかく一人で死ぬ時期を考えてました。(愚痴って楽になるときもありますが、この時はそんなレベルじゃなかったのです)


自害する直前に夫に「あなたが死ぬなら僕が先に死ぬ」と大胆な行動に出られてしまい、一度止められたことがありました。マジで死のうとした夫、多分あれは本気だった。本気で止めてくれた。


この人をわたしなんかのために死なせたくない…その気持ちで何とか踏みとどまりました。その時わたしは「退任はしないけど、わたしは現実的に社長オリる」と決めたのです。


具体的には

・社員に指示、命令をしない(自分で考えて動いてもらう)
・社長の名刺を持ち歩かない(どうしても必要な時に必要な枚数だけ持っていく)
・聞かれるまで社長だと言わない
・等身大の自分を受け入れてくれる人とだけ付き合う
・「接客業は技術職」という考えに基づいて、ひたすらに技術を磨く(現場に出る)


こんなことを実践しました。考え方も徐々に変えました。


そうしたら意外なことに、わたしは現場でなら、まだ頑張れるみたいでした。火は消えていなかったのです。燃やす場所を間違えていただけだったのです。



少なくとも、会社の机の上で見えない地図を描くより、目の前のお客の対応にぱっと反応する仕事の方がわたしには向いていたようです。現場に戻った初日は緊張していましたが、「このやり方で生きていく」と腹を決めていたので、ちょっとのことでは折れませんでした。社長をやめて、接客業の技術者になるという覚悟。これができなかったらもうわたしには何もないという背水の陣。女としては終わってる、学歴知識なんもない、気配りマネジメントもダメ。もう現場でわたし自身戦ってやる。そう決めたのでした。



不思議なもので、真剣に戦っていると不純なものがどんどん消えていきました。他者との比較もしなくなりました。他の会社の社長がどうだとか、世間話としてふんふんと聞くけれど、不思議と気にならない。下手したら記憶に残ってない。それより明日戦うお店でどう数字を出そうか、心の奥が燃えている。

燃えていると、仲間を見る余裕ができる。上から目線などまったく無い状態でうちのスタッフと接してみると、なるほど強い。現場の戦士は強いんだ。だけどわたしも負けてないぞとさらに燃えることができる。吹っ切れてからのわたしは、スタッフにとって「現場で切磋琢磨する」仲間くらいにはなれたと思います。もう誰も「誕生日に手書きのカードを…」とも「現場のことがわからないくせに」とも言いません。



距離を置いたからこそ自分の会社の強みや弱みがわかりました。自分でなんとかしようと思わないで、何か気づいたらボソっと「そういう仕事は誰かと組んでやった方がいいんじゃね?」とか「優先順位としてはこっちじゃね?」と夫に言う。夫がそれを必要だと判断したときだけ社内に周知されている(らしい)。もちろんここぞという時には、現場以外の仕事も引き受けるし、最近では元気になって営業にも出てる。(飲み会接待なしの営業スタイルなので、敏腕営業マンではありません)


体の重心を「経営」から「現場」に置くようにしたことで、わたしの仕事はずいぶん楽しくなりました。恥ずかしいけど、やっぱり考えることは苦手なんです。体で覚えた仕事を体で人に伝えていく。わたしにはそういうやり方しかできないし、このやり方で、効率は悪くても少しずつ前に進むことができている。


翻って、接客業は、技術職です。


毎日複雑なレシピの料理を作ることや、複雑なプログラミングをすることと同じ種類の仕事です。誰にでもできる仕事ではありません。誰もが楽しめる仕事でもありません。「人が好き」だとうまくいくかというと、そうでもありません。記憶力も悪くて不器用、だけど接客そのものと距離を置いて「仕事として」腹を決めて接客をしているわたしなんかが、案外落ち着いた対応ができてしまうのが不思議です。何事も、最後は覚悟なのかもしれない。




わたしの「自殺装置」が外れたのは、得意な「技術職」に戻ることができたからです。「社長はこうあるべき」みたいな固定観念から逃れられたのです。今でも各所から「社長なんだからもっと考えて…」とか言われますが、「ああ、そうですよね、もっと考えなければいけないですよね(困り顔)」と定型の反応を返しています。心に傷はつきません。接客のように自分をコマンドして対応しているのです。わたしは技術職で、たまたま社長になった。わたしの本職は技術職です。


以上、わたしの自殺装置が外れた一部始終でした。


それじゃあ、また明日!



☆今日の過去記事☆

 

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