今週のお題「思い出の先生」
書くか迷いましたが、勢いで書いてみます。
わたしはADHD、多動性注意欠陥という精神的な特徴があり、しかし普通学級で過ごさなくてはならなかったため、いわゆる「落ちこぼれ」として小・中・高と育ってきました。
学校の成績が、自分の考える自己評価とかけ離れたものであることにうすうす気づいてはいたものの、この世界ではわたしは勉強をすることは不可能だ(わたしは集団学習が無理)、と半ばあきらめて、地域で一番の底辺高校に入りました。
底辺高校では、自分の持っている時間のほとんどをアルバイトに費やしました。教室に座っているのは、「高卒」というカードをもらうためなので、出席日数はギリギリ計算して、あまった日は一日中アルバイトをしていました。
親もわたしにはまったく期待しておらず、「高校卒業したらお見合いして結婚しなさい」としか言いません。壊れたテープレコーダーみたいに。だからわたしは高校を卒業したら放浪するつもりでいました。ガチで。お金が無くなったら体ひとつでお金は生めるだろうという考えも、もちろんありました。
そんなわたしに機会を与えてくれたのが、高校三年生のときの担任です。担任は当時50歳くらい、白髪でガッシリ体型、顔はアンパンマンです。担当科目は「地理」。
その担任が、不真面目な態度のわたしにいきなり「挑戦状」を突きつけてきたのです。
「お前、地理だけでいいから学年で一位を取ってみろ」
いきなりの指名に驚きながらも、わたしはそれを成し遂げんと地理の勉強を始めました。ハワイがどこの国かも知らない、ヨーロッパって国名なのかもわからない状態からのスタートでしたが、地理って基本的にイメージの教科です。頭の中に地球儀ができて、そこにひとつひとつ国名が刻まれ、何をしている国なのかをイメージしていくと、暗記ではなくイメージが刻まれました。
約1ヶ月の猛勉強の結果、無事に地理で学年一位を取ることができました。
その時、気づいたのです。
「子どものころよりも、じっとしていることが得意になっている(多動の収まり)」
「記憶力は悪くない、イメージで覚える勉強法なら、他の教科もいける」
「なんで今まで、勉強してこなかったんだろう?」
その後、担任に対する信頼がグッと深まり、わたしは生まれて初めて素直な気持ちで進路相談をしました。
「教師の仕事にあこがれているんですけど」
「親は進学に反対しています。バカは勉強しなくていいって」
「国立以外は大学じゃない、って言われました」
担任は
「大学で何勉強するかが大事なんだろ、お前が教師やってみたいんなら、教育学部っていうところに行けば、楽しいぞぉ!」
「お前勉強してこなかっただけだろ、やれば絶対できる」
「俺だっていい大学出てねえよ、でも一応ほら、教師やってるぞ?(笑)」
そう言って、それから準備しても(高三の一学期です)間に合う、教育学部のある大学をいくつかわたしに教えてくれました。
結局、親からの支援が一切得られないことが確定し、担任と相談した結果、教育学部のある短期大学、それも夜間部に進むことにしました。担任はまさかの「推薦状」を書いてくれ、わたしは人生最初で最後の「推薦入学」を決めたのです。
その後の人生は、その担任のおかげで随分変わりました。
短大は無事卒業しました。昼間はフルタイムで仕事をして、夜短大に通っていたから、体力的にはめちゃくちゃきつかったですけど。卒業と同時に、「小学校教諭二種」「幼稚園教諭二種」の免許をもらいました。
結果として「生徒に勉強を教える」はわたしには向いていませんでした。でも、スポーツなら教えることができた。「教諭資格有り」を武器に、スポーツクラブで水泳を教える仕事や、キャンプの引率、学童保育の仕事など、仕事を転々としながらも、教育に関わる仕事に就く機会をたくさん頂きました。
極めつけに「青年海外協力隊」のボランティアも、かなり競争率が高いのですが、教員免許が功を奏したのか、選んでもらうことができ、インドネシアという見知らぬ国での子どもたちとの交流に参加できました。
教育の仕事一本で食べてきた、とは正直言えません。怠け癖やサボり癖もありますから、楽なほうへ楽なほうへと流れていたこともあります。人に言えないような仕事をしていたこともあります。でも、いつもあの担任がくれた成功体験が、わたしを寸前のところで止めてくれるんです。
「学年で一番、取ってみろよ?」
たった一教科ですが、集中して勉強したらちゃんと一番が取れた。だからわたしはいつもこの言葉を頭の中で置き換えるんです。
「英語、やってみろよ!」
「歴史、勉強してみろよ!」
「会社、10年続けてみろよ!」
全部、人生につながってるんです。たった一つの成功体験、それも高三でやっと得られた成功体験が、今のわたしをここまで引っ張ってくれています。あの先生にもっと早く会いたかったとか、そんな贅沢は言いません。あの時、会えた。それだけで人生の宝物は充分、得られたのです。
この担任の先生とは、その後公式の場では会っていません。
でも、一度だけ、わたしが家電量販店の仕事をしていた時、たまたま通っていた高校の近くの店舗へ出張したことがありました。そこでテレビを販売していたら、お客として先生が来たことがあります。わたしはたまらず、
「先生!」
と叫んでしまいました。先生は、少し痩せていました。頭か体、どちらかを患っている様子で、当時の覇気はありませんでした。でも、しっかりとこちらを見て、
「お前、こんなとこで何してるんだ?」
とニヤリと笑ったのです。息子さんらしい人に連れられ、早々に帰ってしまいました。
先生は、わたしに一生の友をプレゼントしてくれました。どんな時でも、学ぶことは、本は、やさしくわたしに寄り添ってくれます。つらくなったら勉強すればいい。つらくなったら本を読めばいい。学問は一生の友という言葉の本当の意味を知ることが出来た気がします。
この担任のおかげで、わたしの学歴コンプレックスは意外と小さなもので済みました。今では、あの高校であの先生から学んだことがわたしの誇りです。わたしも、いつかそんなふうに思ってもらえるような、さびしい子どもに学問という友達を作ってあげられるような人になりたい。
そういう人になるのが、今の仕事を終えたあとの、わたしの楽しみです。
では、では。