あなたは、走ったことがあるか。
走らされたことではなく、走ったことがあるか。
あんなに孤独な行為があるって知らなかった。走ればみんな明るい気持ちになって、走ればみんな健康になって、走った距離は万人に平等に筋肉を与えてくれると思っていた。
全然違った。
走った距離は容赦なくわたしを裏切った。にわかランナーが、毎日毎日トレーニングしているわたしをひょいと抜いていった。毎日頑張ることってなんてムダなんだろうって思った。
走ることは、世の中は平等じゃないってことをわたしに教えてくれた。日の当たる場所で「みんなでがんばったね!」って笑いあって、部屋でひとりで悔しくて泣く。そんなことの繰り返しだった。ずっと、ずっと悔しかった。どうして、努力した分の筋肉を平等につけてくれないのかと空をうらんだ。
ひとりで走っていると、その苦痛から少しだけ解放された気がした。タイムを競う相手や、走った距離を比較する相手がいなくなって、わたしは少しだけ自由になった。旅気分で出張ランをしたり、海外マラソンに出ることが趣味になったりした。
それでもまだ、わたしは筋肉のつきにくい自分のからだを少し憎んでいる。
こんなに、がんばっているのに。
ぎりりと噛みしめた奥歯の力を少し抜いて、別のことを考えようとがんばるけれど、やっぱり昔と同じで、世の中はちっとも平等じゃなくて。がんばった分だけ報われるなんていうことは全くなくて。
人と比べたら苦しくなるだけなのに、人と比べなきゃ幸せを感じられない自分自身があまりに情けなくて苦しい。
恵まれていると言われるし、幸せなのだと言われるけれど、取り戻せない出遅れを毎日感じているし、自分の力の無さにあきれることばかり。唯一救いであったのは、生真面目にやってきた仕事のひとつが実を結んだこと。
わたしはたぶん、これから身に着ける能力のすべてを、今持っている接客や営業と組み合わせることによってこれからも食べていくのだと思う。そういう生き方がだいたい見えている。これは生きることに対しての安心につながっている。
少しの自信を得たのもつかの間。
また、走り出すと後ろからわたしを追い越す人があらわれる。「最近ゼンッゼン走ってなくてぇー」とか言いながら走り去っていく後姿に涙がにじむ。ゼンッゼン走ってないなら一生走るなよ!! と悪態をつきたくなるが、太陽の下でわたしは悪態をつかない。ちいさな机がぽつんとあるわたしの部屋に帰って、あの部屋でだけ、わたしは自分の本心を白い画面に打ち込む。
白い画面に打ち込まれた文章が、きたない瓶に入れられて、夜の海に流されていく。朝になると何人かがその瓶の中身をのぞきこんで、うわっ、汚い! と見なかったことにして毎日をはじめる。
一体いつこの苦しみが終わるのか。
それでもわたしは走ることをやめられない。走り始めてしまったから。