わたしは最近、死ぬことがそこまで怖くなくなった。
結果として死がそこにあるのは間違いないことが体で理解できた。どう歩いたって行先は「死」。速足で歩いたら途中で転んで早く死ぬ可能性があるけれど、早回ししているようなあの景色も、そう悪いものじゃない。早回しを楽しんだり、ゆるやかな時間を生きたり、そうしながら常に隣に「死」がある。そう悪いものじゃない。
死にたいのかと問われると、今すぐでなくていいとは思う。
けれど、昔より覚悟は決まっているような気がする。
わたしは昔、「自分の命よりこの子(人)を助けて」というセリフは嘘だと思っていた。自分が助かりたいに決まっているじゃないか。だから安全圏からきれいごとを言っているだけだと思っていた。ドラマなどでよくある誘拐のシーンで「わたしはどうなってもいいからあの子を助けて!」これも嘘だと思っていた。刑事たちが見ているから、自分が犯人だと疑われたくなくてそう言っているのだとマジで思っていた。
でも、どうやら違うみたいだ。
奴らは本気で子どもを助けたいんだ。
病気の娘、息子に対し「かわれるものならかわってあげたい」これも嘘を言っているのだと思っていた。医師や看護師が一生懸命治療をしてくれるよう、よき親を演じているのだと思っていた。よき親の子どもの方が手厚く治療してくれるだろうから。必死だな……と思っていた。マジで。
わたしはどうしても、親にはなれないと思う。あまりに条件がそろってなさすぎる。横から何かを中断されるとぶち切れてしまうし、親戚づきあいもできないし(実家にすら全然帰ってない)、何よりピル飲まずに生活したら仕事上で支障が出ることがわかっている。現場で泣きわめくわけにいかないし、強い薬を飲んで眠る寸前のようなふらふら状態では働けない。
それでも、自分を慕ってくれるごく少数の人に関しては、わたしの命より大切だって思う。無条件に笑いかけてくれる人たちに対しては、もしも何かあったらわたしの命よりその人たちを助けたいと思う。
そういう意味では、万一わたしの会社が火事になったら、最後まで逃げないだろうって思う。ウチの会社で働いてくれている人たちにはもう、感謝してもしきれなくて、でも全然それを言葉にして伝えられなくて、やっとごく一部の人たちに少しおどけながら感謝を伝えられているかな……という状態。
わたし酔うほど酒を飲むこともできないし、勢いでなんか言っちゃうとかできないし、結局いつも「がんばってくれてありがとう」の一言が言えない。言えば雰囲気が良くなるってわかっているのに、気づいてないふりをしたり、関係ないことで笑いを取りに行ったり、どうしようもない経営者だ。
ウチで働いてくれている人たちを、どれだけ幸せにできるだろうか。
正直、わたしは自分の命にもプライドにも執着ないから、何かあったら責任取る。無一文上等。卵かけごはんあれば生きられるし、身一つでずっと生きてきたから、たぶん大丈夫。
もちろんそんな事態にはなってほしくない。みんなが安心して働いて、余暇を楽しめる、バランスのいい人生を歩んで欲しい。まだ短期しか無理だけど、どんどん留学してほしい。海外で遊ぶのが楽しいってことも知ってほしい。世界中に友達作ってほしい。
わたしが伝えられることって、世界を旅すると楽しいこととか、外国にいると自然に英語を話すようになることとか、少し自分の中の羞恥心がとれることとか、そんなことぐらい。あとは文章でも絵でも歌でも、楽しいと思ってやっている時間がたまらなく幸せだっていうこと。
わたしの命。
今、いい感じに燃えていると思います。そして、全然守りに入ってないことが自分でもわかります。毎日攻めてる感じがする。
そして、攻めながらも命の終わりをぼんやり見つめている。かってに朽ちて死ぬより、誰かを助けて死ぬ方がわたしの命が喜ぶんじゃないかって思ってる。
今、やっとわかったよ。子どもを誘拐された親は本当に、自分はどうなってもいいと思ったのだろうね。子どもが不治の病にかかった親は、本当に自分がかわってやりたいと思ったのだろうね。
今なら、テレビドラマとか見ても人並みに楽しめる気がする。
きっと、人間として大事な感情がひとつ、わかってきたのだと思う。
そろそろ生理前だから、とても過敏になっています。昨日見た演劇がすごく良かったのに、感想が書けなかった。リトグリのライブも感想書けなかった。
生理前のざわつきが、わたしから「感動した」という前向きな言葉を奪った。
「あいつらは楽しそうでいいよな」
という嫌な言葉が出てきそうになったから、その場が楽しかったというシンプルな感想にまとめた。わたしはこういう時期の自分が嫌いだけれど、嫌いなりに付き合っていくことが大事だと思ってる。
たぶん、あと十日もしたらまた落ち着く。
それまでまたラリパッパするかもwww
じゃあねwww