接客業は卒業したよ! あけすけビッチかんどー日記!

接客業歴15年のかんどーが綴る、あけすけな日記。人生はチキンレースです。一歩引いた方が負け。たまに小説を書きます。お問い合わせはsaori0118ai2あっとまーくやふーめーるまで。

憎悪の根源

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わたしには、どうしても憎悪を抱いてしまう対象がある。


それは、女性を下に見る人。
女性を「劣るもの」として扱う人。
そういうことを無意識にやってしまう人。


女性に生まれて、男尊女卑の家庭に育ったわたしにとって、女性であること自体がずっとコンプレックスだった。どうして男に生まれられなかったのだろうと悔し泣きをしていた時期もある。

だって男の人は仕事ができれば認めてもらえる。苦手分野をやらず、専門職として生きる道も用意されている。


わたしの母は幼稚園教諭の仕事をしていたが、本当はピアノの調律師になりたかったそうだ。しかし母が生きた時代、女性は調律師にはなれなかったそうだ。もし母が調律師になっていたら、かなりの技術者になっていたのではないかと思う。ひいき目に見ているのではなく、血が騒ぐこの感じは母ゆずりだと感じるからだ。

研修期間は何時間でも音叉の音を聴き続け、一台のピアノと向き合い続けただろう。そうして力仕事であるピアノの移動も少しの工夫でこなし、お得意さんを100件とか抱えて、日々調律に走り回っただろうと思う。


母は、効率を考えて仕事をする人だ。


育児をしながらパートに出て夫の愚痴に耐えるタイプの人では絶対にない。


しかし、子どもを持つしかなかった時代だった。母はその世代では珍しく、若いころにアメリカ旅行にも行っている。とても奔放な(おそらく性にも相当奔放な)女友達がいたことも聞いている。その女友達が不倫をしており、修羅場を見た……という話も聞いている。母も、奔放で仕事に一途な技術者タイプだったのではないかと思う。



もう何年も母に会っていない。



今の母は、田舎暮らしの似合う、猫好きで人のよいおばさんになってしまった。気狂いのようにわたしを叱り、時代を憎んだ母の姿はもうない。


母は時代をとても憎んでいた。夫婦別姓法案や男女雇用機会均等法のニュースを食い入るように見ていた。そうして、

「もういい、もういい」

と幼いわたしにもわかるくらい感情をむき出しにしてテレビに文句を言っていた。



もしもわたしが今の年齢で、未だ男女雇用機会均等法なんてやっていたら、わたしもテレビに「もういい」と言っただろう。たいして産みたくなかった子どもに対して憎悪を抱いただろう。


わたしは、生まれるタイミングが絶妙に良かったと自分で思っている。絶妙に女性が働くことが推奨され、女性が働く姿を表に出さなくてはならない現代に生きていて良かったと思っている。そうでなければ、女性社長というだけで目立つことはできなかった。


わたしがもし男性だったら、真っ向からビジネスで勝負できただろうし、楽しかったと思うけれど、こんなに下駄を履いて社長なんてさせてもらえなかったと思う。


そもそも、こんなブログを書いて「社長やってます」なんてふざけてるだろ。おかしいだろ。男で「不倫しましたが俺は社長続けます」とか書けねえだろ。


わたしはたまに、何と戦っているのかわからなくなる。


わたしに自分と同じ道を歩ませようとした母と戦っているのか。
未だ男性中心の社会と戦っているのか。
女性を見下す男性個人と戦っているのか。
そんな視野で社会を見ている自分と戦っているのか。



いずれにしても、戦う以上は勝たなきゃならない。狩りに出たら獲物をしとめなければならない。負け戦に出かけるバカはいない。勝てるように考えて戦いに出るのだ。


わたしはよく、自分が戦場に出ていく姿をイメージする。


鎧や剣や盾、さまざまな戦いの道具が用意されているのだが、戦いに出るわたしはいつも全裸だ。丸腰の全裸で敵陣に駆け込んでいき、相手の腰に差してある剣を奪い取って切りつけるのだ。


全裸で返り血を浴び、自分も傷を負うが、口元がわらっている自分がいる。戦うことが本当に好きな自分を発見する。



わたしは生きている限り戦い続けなければならない。わたしが生きている間はたぶんなくならないであろう女性差別と。女性であるがゆえの無力感と義務感とすべて放棄した女性の末路と。

そうして、これから起こる更年期障害を全身で受け止めて、わたしはさらに女性である自分と戦うのだと思う。


「病気と闘うな、仲良くしろ」という言葉を聞いたことがある。確かにそうだと思う。病気とは仲良くできる自信がある。でもなぜなのだろう。女性である自分とは、上手に仲良くできない。


やみくもに体を酷使することも、女性なら当然持ち合わせている羞恥心を持ち合わせていないことも、欲望の赴くままに行動してしまうことも、自分の中で女性性を否定する行為だと思っている。わたしのからだなんて無駄遣いしてしまえと心の中で鬼が叫ぶ。


その「無駄遣いしている時間」は快感も与えてくれるのだから、わたしは自分を無駄遣いしない理由が無い。内側の粘膜は勝手に再生するからいくら擦ったって大した問題は無い。


春になるとまた心の中で鬼が叫ぶ。自分のからだを無駄遣いしろと叫ぶ。


わたしはどう生きたら良いのだろうか? 女性であることを上手に受け入れることもできず、快楽に溺れきることもできず、日々を憂いているようなかっこつけの自分しか出せない。


仕事があってよかった。仕事をしている間は鬼が出ない。可能ならば夜もアルバイトをして時間を全部仕事につかってしまいたい。ああでもそうしたら書く時間が無い。書いていると充実しているのだが、書くことによって自分の中の鬼をゆり起こしてしまうことがある。それがまた怖い。


憎悪、性、劣等感。


きっとこの三つの悪魔のような感情に振り回されたままわたしはもうすぐ更年期をむかえる。