世の中が終わればいい、と思っていたことがあった。
そんなに大げさに考えることじゃないのに、深く考えすぎては世の中を終わらせようとするのはよくない考え方だ。もう少し楽観的に生きたらいい。壊すなら自分の中のどこかを壊せばいい。
わたしは下剤を飲む。
飲まないと出ないし救急車を呼ばなければならなくなるので、早めに飲んでいる。もうこれはわたしの日常だし、食物繊維とか野菜350グラムとかもういい、それやっても出ないから。乳製品も吐き気がするだけでだめだから。
でも一縷の望みを託して、桑の葉茶を買った。たまたま試飲をやっていて、冷たい桑の葉茶がとても美味しかったから買った。青汁の罰ゲーム感を取り去ったような、青虫のおいしいところをかじり取ったような、美味しい味だ。しかも急須に入れる必要が無い。カップに粉を入れて水道水かポットの湯を注げばできるのだ。使うのはマグカップだけ。これなら続く。
毎日桑の葉茶を飲んで、わたしなんてカイコみたいになってしまえばいいと思う。それでも出なかったら、やっぱり下剤を飲んでわたしなんてぶっ壊れてしまえばいいと思う。たぶん若いころの暴飲暴食で、わたしは半分以上ぶっ壊れていると思う。今更何をどうしたって、きれいな体には戻らない。
わたしのからだはやがて朽ちる。心だけがどこかに残るか、もしくは残らないかっていう感じになる。心はいつまでも若いつもりなのに、体はどんどん朽ちていく。でも止めることはできなくて。
「心が汚れた」という表現を最近聞いたけど、わたしは自分の心が汚れているなんてちっとも思わない。どうして心が汚れるの。正しいと思ったことをして、たまたま間違っていたり人を傷つけたって、眠れば新しい朝でしょ。汚れてなんかいない。わたしはそうしてまた自分を塗り替えて新しい朝を生きる。
もう、全部ぶっ壊れてしまえばいいと思う。
わたしは後悔しないように生きているから、たぶん今いなくなっても後悔はない。わたしの走馬燈はいつも美しい。きれいごとだけを頭に残しているから、いびつに美しいよ。今も頭の中には美しいものだらけ。記憶はすべて美しい。あれも、これも美しい。きたないものやいらないものは忘れる。都合の悪いできごとも忘れる。
腸壁からすべてが流れ出て行く感覚が好きだ。
自分がぶっ壊れていくようで大好きだ。
後悔はしないけど、ほしいものが手に入らない苦しみにはいつも耐えられない。毎日頭が壊れそうになる。早く壊れてくれって思う。苦しみが嫌いだから、麻酔のかわりになるものが好きなだけ。
今日も生きてる。理由なんてないんだよ。
ブレーキの壊れた車は前に進むしかないから、こうやって生きてる。たぶんわたしは死ぬまで止まることは無いんだと思う。だから、壊れることに憧れを感じる。救われることは求めてない。依存させてくれなくていい。ただ、止めてほしい。止まれないけど。
たくさんの野望が蠢く世界でもわたしは怖くない。突き落とされるのは慣れているし、上手な落ち方も知っている。誰が人を突き落とすか、も前よりわかるようになった。だから、怖くないんだよ。
誰にもキャッチされない電波にのせて文字を発信して、今日も夜を乗り越える。
夜に激しい雨が降るとさびしさが癒される。人と人を遠く隔ててしまうこの空なんて、雨雲で埋め尽くされて白く濁っていたほうがいいんだ。
それじゃあ、また明日。