大好きな歌がある。
よくわからないが、この曲ばかり聴いてしまう、みたいな歌ってない? わたしにはいくつかあるが、今はずっとこの曲である。20代のわたしがハマりにハマった、純粋なお気に入りのアーティスト。Owsley(オウズリー)のアルバムの中の一曲である。
Sentimental Favorite
直訳すると、「感傷的なお気に入り」だけれど、わたしはもう少し違う意味にとらえていて、それは勝手な想像でしかないので書かないけれど、誰もが自分を重ねられる意味だと思っている。
たとえば、フラれた日に、「それでもこの人のことが大事」と思う気持ちかもしれない。誰にも理解してもらえない日に「みんな僕を間違っているっていうけど、僕はこの自分自身を気に入っているのさ」という情景も想像できる。そしてもっと大きな視点に上がっていくと「人はみな身勝手に人やモノを愛して、そして勝手に傷ついたりする」という人間の業のようなものを思い浮かべることもできる。
もっと英語文化に触れていったら、もっと深いところまで理解できるかもしれない。そして音楽の理解度もそこに揃っていないと理解はできないと思う。今のお気に入りはこの曲だけれど、それはわたしが渡航という一大イベントを控えているから、このせつないメロディに心癒されているだけかもしれない。お気に入りはまた変わっていくだろう。それでもまたこの曲に出会ったときには、新しい発見があると思っている。
その日にこのページを開くために、今日の記事のタイトルをそのまま曲名にさせてもらった。
わたしは今、非常に感傷的である。悲観的なのではなく、人の心情に非常に敏感になっているという意味だ。
日本は何もかもが「速い」。だから待つ時間などほとんどなくて、ぼーっと何かを考えることもない。そしてスピード感も大切にされる。余分なことは考えなくなっていく。そうして上に上がっていく。
しかしひとたび海外へ出ると、驚くほどにゆっくりしていることに気づく。速い部分は速いのだが、全体的に歩くのもゆっくりである。たとえばフィリピンで、ゆっくり歩いて目的地に到着し、ゆっくり日陰に入り、汗をぬぐって建物に入るとき、いつも独特の感覚になる。自分が過去の自分ではなくなっていくような、土地に染まっていくような、初めてなのになつかしいような、人間・自分としての心への回帰がなされる。
ほとんどの創造はこの「人間・自分」にトコトン向き合って、深く回帰することによってなされるのではないかと思うようになった。
どんどん殻をやぶって、いらないものを取り去って、自分を丸裸にして、産む。その過程は苦しい時もあれば快楽であることもある。
Sentimental Favoriteとは、心へのアクセス、のような意味でわたしは捉えている。(結局書いちゃったよ)心へアクセスする回数が増えたり、心へアクセスするたびに一つの対象へと心が向かっている自分を俯瞰して見るときに、Sentimental Favoriteを感じる。
「全然ちげーよw」
と天国のオウズリーが笑っていても、別にいいのである。あなたの歌が、あなたがいなくなった後も誰かの心の中に深く楔のように刺さっている。ただそれだけが一つの事実だ。こんな素敵なメロディを作ってくれたことに感謝するだけだ。
最近、少し感傷的になった。
海外に行ってしまう人を「いないものだと感じる」と言われたことがきっかけだった。「仕事を頼みたくても頼めないから、いる人リストから消すのだ」というようなことを言っていた。確かにそうだなと思った。わたしだって逆の立場なら「仕事頼める人リスト」「飲みに行ける人リスト」「ちょっとお茶できる友達リスト」からその人を消すだろう。
でも、わたしはちゃんといる。世界中どこにいたって、これまで出会った人たちや会社のことをいつだって思っている。日本で大切にしてきたものを捨てていく感覚なんてまったくない。
むしろ、いままでいつでも会えると思っていたのが、そうではなくなる分、今までよりずっと一人一人、ひとつひとつの場所を大切にするようになって、その時間を噛みしめるように生きるようになった。でも、結局は「いなくなる人」なんだなあと。
わたしがどこにいても、お気に入りの曲をすぐに口ずさめるように近くに寄り添う方法があればいいのに。すぐ近くで話しているような気持ちになれる方法があればいいのに。隣で一緒に眠っているような感覚になれる方法があればいいのに。
ほしいものが全部手に入ることなど永遠に無いのかもしれない。でもこういう時はこうして文章が書けるし、もっと言えば歌も作れるし、これはこれでわたしのお気に入りの時間なんだ。
こういう気持ちもきっと
Sentimental Favorite.
以上。