接客業は卒業したよ! あけすけビッチかんどー日記!

接客業歴15年のかんどーが綴る、あけすけな日記。人生はチキンレースです。一歩引いた方が負け。たまに小説を書きます。お問い合わせはsaori0118ai2あっとまーくやふーめーるまで。

自分の履歴書が愛おしい

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自分の経歴、好きですか?

私は大好きです。誰に話しても恥ずかしくないし、自分がそれを思うだけでも力強く感じる、素敵な人生を歩んでいると思えます。


最近、私は自分の履歴書がないなと思って、手書き版とウェブ版両方作成しました。
そうしているうちに、「なんて素敵な履歴書なんだ……!」と思えたのです。

 


高校は底辺高校だったけれど、高3で担任の先生に恵まれた私。

高1、高2と勉強は一切しなかった私ですが、高3になって「地理で学年1位を取れ!」等の私にわかりやすい指示を出してくれる担任のおかげで、まずは地理で学年1位(100点でした)を取ることから始めて、徐々に「化学の先生面白いだろ、俺仲いいんだよ、化学も100点取れ」等言われて、とにかく勉強を煽られました……

「国語も英語も意味わかるだろ、忘れちゃうんなら覚えるまでやれ」等の指示も良かったです。そう、国語や英語は覚えさえすれば「絶対解ける」からです。

そうしてある程度の学力が出揃うと、私の方から「教育学部のある大学へ行きたいです」と、関東圏にある教育学部の有名な大学の名前を挙げました。担任は、

「そうか! 教師か!」

と言って喜んでくれました。

しかし、次の三者面談に親は来ず、私が大学に行くことは賛成しないから学費は出さないし、奨学金も認めないと言われました。絶望しかなかった瞬間です。

※6歳下の弟の学費は大学も専門学校もどちらも出しました。しかしどちらも10日も通わず入学金だけ取られた形です。そして弟はその後10年くらいでこの世から失踪し、死亡が確定しています。もうこの世界にはいないのです。


高校の時からアルバイトをしまくって学費を自分で出していましたが(定期代も)、大学となると学費がかなり高いので、アルバイトをしながら通うとしてもお金が足りなくなる計算です。しかも行きたい大学は遠かったので一人暮らしが必要。

途方に暮れていると、担任が「夜間部で、教員免許が取れる短大があるぞ!」と私に推薦枠をくれました。その短大はけして評判の悪いところではなく、むしろ教育や看護、音楽において地元で認められている学校でした。最終学歴としてはけして悪くないです。


しかも夜間部!! それなら昼間正社員をすれば短大に通うことができる! と、可能性が見えてきました。

その日から私はアルバイトを頑張って(勉強じゃないのが悲しい……)、とにかくその夜間短大の入学金70万と、一人暮らしの軍資金を貯めました。

夏休みは40日くらいあったけれど、40勤務×2(昼と夜で2か所をかけもち)くらいして、25万くらい稼いでました。2学期もほぼバイト。冬休みもバイトでした。

短大の入試は、推薦ということで、小論文と面接がありました。どちらも難なくクリアして入学が確定した瞬間は、担任もすごく喜んでくれました。


思い返すと、あの短大へ行ける推薦枠は、私の底辺高校からだと1つとかしか無かったと思います。その枠を私にくれた担任。結構年もいっていたので、職員室内での発言力も強かったのだと思います。

私は高3時点で漢字検定2級と英検3級を持っており、そこを押してくれたっぽいです。底辺高校だと、この2つ持ってる人少ないので、少し目立てたのだと思います。


そして、私は無事に短大に入ることができました。


短大では、残念なことに友達がまったくできませんでしたw 今連絡を取れる人も一人もいません。しかし、児童心理学→心理学へと興味がわき、児童心理学のテストがすごく良かったり、心理学者の名前を聞いたら「こういう感じの本ですよね?」くらいにはわかるようになりました。

本の楽しさに気づくのはもう少し後になりますが、教材はよく買って勉強していました。


そして、就職氷河期だった私は、そもそも新卒一斉採用みたいなのがあまり好きではなかったので(協調性がなかった)、自分でフロムエーで探してきたヤマザキパンの求人に応募して、夜勤社員としてキャリアをスタートさせます。

その後、ヌードモデルをやったり、クラブシンガーをやったり、スイミングスクールで水泳を教えたり、青年海外協力隊に行ったり、アロマエステで射精までを担当したり、とにかく何でもやりました。

その中で花開いたのが「営業」という分野でした。


私は、営業が強かったのです。


押しが強いし、引いて押す……みたいなことも上手にできたので、営業成績だけはよかったのです。


そしてその後は販売の仕事や接客業を極め、「ガジェットを販売する派遣会社」を立ち上げて自分で経営をしました。

会社経営をする中で、マネジメントスキルが身に着いたり、税金のことがわかったりしました。簡単な経理ならできるようになりました。


そして、会社経営8年目くらいでフィリピンに渡航

セブ島で屋台をやりました。これは2年ほどです。この経験によって英会話ができるようになり、英語コンプレックスもなくなりました。


そして帰国後は小学校の産休代替教員として2年働き、今は英語教員として某所で非常勤講師をしています。


正直に言うと今この瞬間はめっちゃラクに仕事してるんですが……笑


地方移住もしたのですが、仕事に困っていないのは、教員のスキルがあるからだと思っています。


高校3年のとき、親が学費を出してくれないからといって、進学をあきらめなくてよかったです。教員免許があるのとないのでは、人生まったく違っていたと思います。

もちろん、私の一番の武器は「営業」なので、なんとかなったとは思いますが、営業だけだとちょっと疲れることもありますので……笑


教員をやったり営業をやったりしながら、ふらふら生きていければいいかなと思っています。


長くなりましたが、私は自分の履歴書がすごく好きです。
がんばってきた歴史がそのまま刻まれていて、いいよな~と思えます。

この「いいよな~」という感覚が伝わってくれる企業様があれば、私は海外就職することができるでしょうし、みつからなければその時はその時です!


とにかく、生きててよかったです!!


今日はそれだけ伝えたくて記事を書きました。
それじゃあ、また明日!