二人で写真を撮ろう 懐かしいあの景色と
こんな歌い出しで始まる歌があった。わたしは写真が嫌いだった。憎らしい思い出を刻みこむ、いやなものだと思い込んでいた。寂しい学生時代、お金のない自分、メイクの仕方すら知らない自分を写真に焼き付けられることが大嫌いだった。
そんなわたしがいつからか、写真のことなどどうでもいいと思うようになっていた。「写真」はわたしにとってそれほど重要ではないし、ブログを書くようになったからなんとなく必要に応じて撮影するようになっただけだ。使っているカメラも「水中でも使える」「落としても大丈夫」など、利便性重視で選んでいる。写真を本気でやっている人には失礼な話かもしれないが、わたしはカメラに過大な期待はしていない。
写真にまつわるエトセトラ
自分のカメラで、今ここにいるメンバーと写真を撮りたいと思ってもなかなか言い出せない。なのに、誰かが「写真撮ろー!」と言って撮ったあと「わたしのも、いい?」と便乗ならできるのはなぜだろう。「写真を撮ろう」というのは、その時間を切り取ることで、その時間が確かに存在していたことを証明することで、後で見返すかどうかはさておき、自分をそこに焼き付けることになる。
インターネットの登場で、写真の捉えられ方は一気に「著作権」「肖像権」という味気ない言葉に形を変えた。それはとても寂しいことのように思えるし、しかしその概念についてはいつか、誰かが明確にしないといけないものだ。
消去にまつわるエトセトラ
「あーこれ盛れてない! 消し!」
そうやって、フィルムを無駄にすることなく、無限に撮り直しができるようになった。何枚でも撮れる。失敗した瞬間で面白いものがあれば、別の意味で思い出に残る。間違って消去してしまったり、パソコンのデータが消えてしまうと、その写真は「なかったこと」になる。それは少し寂しいけれど、いちいち燃やしたりしなくて良いので気楽でもある。(卒業アルバムを燃やすのは一苦労だった)
写真が証明してくれること
わたしは、写真はその時間、その人がそこにいたことを部分的に切り取っただけのものだと思う。カメラを向けられた瞬間笑っていても、実は重大な問題を抱えているかもしれない。そういうことは写真に写らない。ただ、おもいきり親しくなった人とは自然に距離が近くなったりアクションが同じになったりする。ほんの一枚の写真でも、人と人の距離がよくわかる。
「写真を撮ろう」というのは、その時間を共有したよね、という前提を共有することだと思う。
「写真を撮ろう」というのは、その時間を共有したよね、という前提を共有することだと思う。
「この日わたしと一緒にいたということを誰かに話しても良いんだよね?」と共通認識を確認することと同義。わたしにとっては写真ってそういうものだし、一緒に写真を撮るのは結構スペシャルなことだ。相手が軽く写真を撮る人だった場合は、わたしにとってもその意味を軽くすることができるので「どう、盛れた?」などと軽く話すけど。
あの日あなたは一緒に写真を撮ってくれた。
だから、この日わたしとあなたは一緒にいたんだよね。
この事実は変わらないよね。
地球が何回まわっても、あなたがわたしを忘れても。
これきり会わなかったとしても、この瞬間は嘘じゃないよね?
この瞬間をいつかわたしの糧にしていいよね?
一緒に、楽しかったよね?
あなたも楽しかったんだと周りに話してもいいよね?
ひとりよがりじゃないよね?
…こんな質問をぶつけることは、たぶんできない。どういう手段を用いても、できない。「ね、アレしよう」とは言えるわたしも、上記の質問をぶつけることはとても困難だ。カラダを許すことはできてもココロを許してないあの感じ。カラダで確かめ合うことはとてもイージーなのに、相手の心の中を推察することはとても難しい。
だから、写真を撮るのかもしれない。
「一緒だよね」
そのたった一つのコンテクストを共有するために。
すみません。コンテクストって言いたいだけでした。写真は32歳の頃のわたしです。
それじゃあ、また明日!