接客業は卒業したよ! あけすけビッチかんどー日記!

接客業歴15年のかんどーが綴る、あけすけな日記。人生はチキンレースです。一歩引いた方が負け。たまに小説を書きます。お問い合わせはsaori0118ai2あっとまーくやふーめーるまで。

父が倒れた

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父が倒れた。

 

 

冗談ではなく本当のことである。父は心臓に人工弁を入れている。それのトラブルだとか。前にも一度手術をしているが、そのときは「成功率95%の手術」であった。しかし今回は違うらしかった。

 

 

わたしは土曜に仕事を早退させてもらい、新幹線に飛び乗り、日曜の昼まで母に付き添って病院にいた。

 

 

電話の母の声が切羽詰まっていたので、「だめか…?」と一瞬最悪の事態が頭をよぎった。

 

病院に到着して直接母に話を聞いてみると「死亡率60~80%の手術」だということだった。数字の上では、死亡率の方がぜんぜん高いことになる。

 

しかし、わたしは「治らない患者に手術はしないだろう。これは、勝てる」と根拠のない自信を持っていた。

 

手術は10時間と聞かされていた。わたしが到着した際はすでに手術室へ入って1時間が経過していた。

 

 

最初の3時間ほどは不安だった。

 

 

「開けてみたけどダメでした」が来るならこの時間で来ると思ったから。しかし来なかった。

 

5時間が過ぎた。

 

母と「これは、手術してくれてるね」と声を掛け合い、長丁場に備えて交代で軽食をとったり、夜だったので仮眠をとったりした。

 

9時間が過ぎた頃から、わたしは手術室の前でぼーっとしていた。なぜ、こんなことになるまで実家に帰らなかったのだろうと自分の行動を反省しつつ、祈れるものには祈っておいた。連絡をくれた人にも、「何の神様でもいいから祈っておいて」とお願いした。

 

 

祈りが通じた。

 

きっかり10時間で手術は終わった。

 

 

 

母とわたしは医師の説明を聞くための部屋に入ったのだが、父の体は、医師も驚くほどに頑丈にできていたらしい。説明を聞いて驚いた。

 

「普通ならこの状態では、手術するより前に、死んじゃってます」

「今回、緊急手術に踏み切ったのは、放置していたら100%死亡したからです」

 

 

特殊な状況だった。本来、手術は準備をしたり予定を組んでするものだ。今回は急を要するということで、病院に着いて最短の夜間手術をしてくれたのだ。(感謝しかない)

 

 

手術は成功。ただし、医師いわく「60~80%の死亡率とは、術後の経過において死亡することも含めた死亡率のことです。まだ安心できる状態ではありません」とのこと。

 

 

まずは翌日、昼頃までに目を覚ますこと。これができないと、戻って来られない可能性が高いらしい。

 

 

目を覚ましても、人格が戻ってこない可能性もあると説明された。父は脳梗塞も併発していた。たとえ元気になっても、元の父が戻ってこないことは充分にありえると説明を受けた。

 

正直この時点で泣きそうだったのだが、「そうなったらそうなったときだ!」と思うようにした。明るい人格で生きてくれるならば、それでも良いではないか。いつかふと思い出がよみがえるかもしれない。ほら、走馬灯とか。

 

 

 

 

複雑な思いを抱えたまま、わたしは母と実家に帰り(深夜2時頃)、実家の猫や亀と戯れつつ「明日になったら起きてるでしょ」とあえての楽観でお風呂を済ませて眠った。

 

母はあまり眠っていなかった。わたしは6時間くらい、マイペースに眠った。

 

翌朝は母の作った朝食を食べ、猫と亀と戯れてから病院へ向かった。

 

 

 

後になって思い出したのだが、この数日前に、父から「あわたはなくまじ」のような意味不明の文字列がSMSで送られてきた

 

これが予兆だった。

 

今思うと、この予兆に対し「今すぐ病院行け!」と母に連絡しなかった自分が憎い。後少し早ければ、もっともっと軽くて済んだかもしれなかった。

 

しかし、母いわく、「変なメールは私にも来たのよ。でも昨日まで普通に運転して、友達と会ったりもしていたの。ただ、お土産を忘れて来ちゃったり、変なところはあった。あまりに変だから病院に来たらこうだったのよ」とのこと。

 

 

医師の説明でも「微熱だとか、苦しいとか、あったはずなんです。でも丈夫ゆえに、耐えられてしまったんでしょう」「体の中に、血液を通してばい菌が回った状態です」と言われた。父は頑丈過ぎるらしい。。

 

 

 

はたして術後、翌日昼の面会。

 

 

父は見事に意識を取り戻していた。人格まで変わると言われていたが、母のことも、親不孝でなかなか帰らないわたしのことも認識した。(たぶんw)

 

「よっしゃ!」

 

わたしは小さなガッツポーズをした。父はすべての戦いに勝った。

 

 

 

そもそも父は、高校を卒業してから料理の道に入り、ろくに休みも取らず長時間労働で料理の腕を磨き続けた。そのかいあって、30代からはずっと「シェフ」の肩書きでフレンチレストランでフライパンを振ってきた。

 

たくさんの出世争いがあったと思う。しかしそのすべてに、腕一本で勝負を挑んで戦い続けてきた。

 

時には負けることもあったかもしれないが、父は良い料理人であり、独自の接客術を持っていた。

 

40代の時、父は「鉄板焼きステーキ」のお店で働いていたことがあったのだが、ユーモアあふれるトークと熟練の腕で、楽しい食事の場を提供していた。

 

初めてのお客が緊張せずに楽しめる接客。

常連客が「特別感」を感じる接客。

常連客が騒ぎすぎたときの店内の雰囲気の調整。

 

目端のきく父だから、相当心を砕いて仕事をしていたと思う。帰宅すると映画を見ていることが多かった。無類の映画好きであった。

 

 

 

仕事を愛していた父であったけれど、今のボロボロになった体を思うと、過重労働だったのではないかと思う。それについても複雑な心境になっている。

 

 

 

現在、父の体にはたくさんの管がついている。まだまだ「元気」とはとても言えない状態だ。戦いは続く。

 

しかし、なんとなくだが父は戻って来ると思う。杖くらいはつくかもしれないが、歩くだろう。物忘れが激しくはなるかもしれないが、ほとんどのことを思い出すだろう。

 

「こんなことになる前に帰ってこいバカヤロウ!」

 

と叱ってくれるだろう。少しどもっても良いので、自分の意志を自分の言葉で伝えてくれるようになってほしい。

 

 

その時までわたしは人前では泣かないのである。ちなみにこれを書いている今は新幹線の中で号泣しているが、マスクをしているのでたぶん誰も気づいていない。だからセーフなのである。

 

 

 

そんなこんなで、土日は病院と実家にいました。忙しい中、即早退させてくれたクライアント様には感謝しかないです。

 

わたしが帰ったから治るというものではないけど、母と二人で一番の山場を越えられて良かった。

 

 

これからは、実家に帰ろうと思う。誰かが病気をしたりしなくても、普通に帰ろうと。母と話すのは楽しいし、父にはまだ聞きたいことがあるのだ。

 

わたしはこれから、飲食の仕事をする。時間がかかったけど、結局わたしは父の血を受け継いでいるような気がする。父の仕事っぷりが好きだったし、誰かにわたしの作った食べ物を「おいしい!」「楽しい!」「珍しい!」と喜んでほしいのである。

 

父の教えは至ってシンプルだった。

 

「目の前にいる人間をまず幸せにしろ、そうすればその規模を大きくしてもやっていける」

 

わたしは地味にこの教えを守って仕事をしてきたような気がする。今やっと「規模を大きくする」ことにも目が向き始めた。今一番仕事が楽しい。だからもっと父と話したいのだ。父と、母と、普通にただ話がしたいのだ。たったこれだけのことに気づくのがとても遅くなってしまった。

 

 

 

母は昔はイライラしてばかりだったけど、今は穏やかで素敵な女性である。

 

母の作った折り紙。クオリティが高すぎて笑ってしまった。クジャクである。あまりに美しいのでたくさんもらってきた。海外へ行くときに持っていって、気に入ってくれた子どもにプレゼントしようと思う。

 

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背景に映っているのは、電子書籍でも登場した、10年前に呪われた部屋で一緒に暮らしていた猫のチィである。

 

 

ああ、なんだかたくさん泣いてしまった気がする。

 

 

 

今日からまた、自分の仕事をがんばる日々が始まる。泣いている暇はないし、人前で簡単に泣いていいとは思っていない。

 

だからこんなことを書けるのは、わたしにとってはここだけなのである。

 

ちょっと今ここだけのはなし、なのである。

 

 

それじゃあ、また!