今日は短く更新します。
わたしは、人生で何度か「奇跡」を目撃してきました。
そのうちのいくつかは、命に関わるものです。ほぼ助からないと言われていたのに生還してきたとか、そういうことです。これ実はうちの父なんですが、すごいんです。寝たきりになることは覚悟しておけ、くらい言われていたのですが、なんと先週自分の足で歩いてお花見していました!(写真送ってもらいました、びっくりしました! でも良かったー)
そういう「生命力」の奇跡もそうだけど、もう少し身近なところでも奇跡って起こります。
たとえば、それまで全く縁がなかった人となぜか親しくなって、仕事とか趣味とかほぼ共通点がないのに、気づいたらすごく仲良くなっていたとか。
絶対無理だと思っていた試験に受かったとか。
そんなに続けるつもりがなかった仕事なのに、気づいたら昇進して店長になっていたとか。
生きていると、いろいろな奇跡が起こります。それらの奇跡の物語は、実はあまり語られていません。「偶然」として片付けられていたり、「必然」であると理由づけられて、奇跡を奇跡として扱わなくなっています。
★★★
わたしはこの世の中は奇跡の集合体だと思っていて、たとえばたまたま仲良くなった女友達(さめ、お前だ)と妙に気が合うことも奇跡だし、なぜかもう9年くらい続いている仲良しの友達との縁も奇跡。
会社をすることができたのも奇跡だし、今外国にいることも奇跡。
あとは、男女の付き合いも奇跡だと思う。悲しい結果になることもあるけれど、一人の人を愛して、その人のことをたくさん知って、自分のことを知ってもらって……という一連の流れが奇跡でなくて何だというのだろう。
その瞬間、たった一人の人のことを強く想えるということは、まぎれもなく奇跡だと思う。
奇跡は、自然発生イベント的に起こるものではない。わたしは常に、自分が奇跡のトリガーを引けるように生きてきた。自然発生的に起こるイベントはどれも魅力に欠け、生きていると思えなかったからだ。お見合いをして結婚をしろと言う。カレシ見つけるために飲み会に来いと言う。シアワセ探すためにリョコウしようと言う。どれもわたしにとって奇跡だと思えなかった。
それらの自然発生的イベントに参加していた時期もあったけれど、いつからかやめてしまった。自分で起こしたイベントにだけ参加するようになった。超簡単に言うと、「自分主催のイベント」にしか行かなくなったということだ。
そんなわたしに、たまに神様からの招待状が届く。
自然発生とはほど遠い、突発的発生と言えるイベント。そういうものには、気分が乗ったら行くことにしているが、最近このあたりも外していないなと思う。楽しいのだ。行った先で奇跡が起こったこともある。
奇跡は自分で起こすものだが、自分が行動する人であり続ける限り、周囲も変化していたり、何事か成し遂げている人が集まってくる。周りの人を面白がらせることも大切である。
破天荒な生き方をおすすめはしないけれど、奇跡のトリガーに常に指をひっかけている感覚はなんとも言えず心地良い。毎日ほどよく酔わせてくれる美酒のような魅力がある。肉体的には疲れるし、精神的には追い込まれることもある。しかしその先に「新しいもの」が待っていて、それまでの自分では見えなかった色が見えてくる。
それこそが「人生を生きる」ことではないかと思っている。
変化を好む人は、変化し続けて良いのだと思う。停滞していては動くものも動かない。もちろん、定住を好む人がいることもよく知っている。定住の快適さはわたしも知っている。
わたしは、定期的に繰り返すのかもしれない。
好奇心を満たす行為と、それまでに得たものをアウトプットする行為を。
今、わたしの好奇心は満たされまくっているw
今日は独り言でした。(っていうか全然短くねえ)
それじゃあ、また明日!