※写真あります
こんにちは、生きる選択ミス、かんどーです。
人生は選択の連続。ですが、わたしは選択がうまい方ではありません。何度も「こっちじゃなかった……」という道を歩いては引き返し、一つ前の分岐からやり直して、歩き続けています。
もう、歩いてるのがめんどくさくなって、最近は走ってます。選択肢なんざ、選んでも間違えるんだから全部端からつぶしてしまえとさえ思ってます。過去に間違えた選択肢は間違えなくなっているので、まあマシになっているとは思うのですが……
著者近影
(non様アプリ何使ってるのか教えてください……)
やらなかった後悔より、やって得るものの方が大きい
こんな言葉があります。
「キリンさんが好きです。でも、ゾウさんの方がもーっと好きです」
これは、彼女の中に「キリン」という選択肢を選んだ経験があり、さらに「ゾウ」を知ったからこそ出る言葉ですよね。「キリン」を知っている状態で「ゾウ」を見た彼女だから言える言葉なのです。もしも彼女が「キリン」を知らないまま「ゾウ」を見たとしたら、こう言うはずなのです。
「ゾウさんが好きです」
これはとても弱い「好き」です。それしか知らないから、それが好き……というふうにも取れます。
「置かれた場所で咲きなさい」的な、目の前の相手を愛しなさいみたいな意見はもちろん理解できます。「ゾウしか知らないけれど、ゾウを世界一好きだと言い切る」ことに強さがあることは認めます。
でも、わたしはキリンもゾウも知って、どちらも選ばずに他の動物を見るような生き方しかできないのです。
キリンもゾウも魅力的です。だけど、「他も見てからね」なのです。いつまで他を見るのか、わたしにもわかりません。だけどただ一つ言えるのは、わたしは後になって「ああ、キリンが良かったわ」とか言わない。「ゾウは最高だったわ」とも絶対言わない。だって、選択肢を自分で一つずつつぶしていく生き方しかできない以上、後悔したって仕方ないんですよ。
全部やって、選択肢というドアを全部開けて生きることは、多くの人から否定されます。誰の肯定も得られません。目の前の人から罵声を浴びせられることだってあります。人間として否定され続けます。
それでも、これまでの人生で出会ったすべての人や出来事を、わたしは愛せてしまうのです。自分でもこれがなぜなのかわかりません。憎むこともあったけれど、深い夜にひとり、過去の出来事を取り出してそっとながめるとき、とても優しい気持ちになります。誰のことも悪く思わないし、起こった出来事をうらんだりもしません。ただ優しい夜が流れていくだけ。この優しい夜は、紅茶でもお酒でも受け止められます。そのくらい優しいのです。
自分の人生を思うとき、思い浮かべるものがふたつあります。
一つは、「愛はかげろうのように」という名曲。
もう一つは、安田弘之先生の「ちひろ」という漫画。
人は「作品の中に自分を見つける」と魂が震えます。わたしにとってこの曲とこの作品が、もう不変のバイブルのような存在です。だってここ15年ずっと変わらないんだもの。
二つとも、主人公は娼婦なのです。
娼婦は人間でありながら、媒介者というポジションを取ります。思考停止しているように見えるかもしれませんが、それぞれの時代で娼婦たちは思考し、対応し、適応している。娼婦の立場でものを言う時点で、娼婦である自分に対して一定以上の肯定があるのです。自己肯定が完成した娼婦は、ものすごく強い。人を見る目も養われているし、対人スキルも高い。
ただし、どこかつかみどころのない人になってしまうのです。
本人もそれをわかっている。わかっているけどそれがわたしの生き方なのよ……という小さなため息が聞こえてきます。
わたしが娼婦の生き方を素敵だと思うのは、彼女たちの、そしてわたし自身の中にもある「あきらめ」の情念です。
達観している、とも言えるその儚く強い生き方に、強く共鳴するのです。
遺伝子の問題で、わたしの人生は「好奇心」に突き動かされるようなものになっています。食べても食べても満たされない食欲のようなものが、心の底からぶわっとわきあがって、今現在を継続することを拒みます。「新しい場所」「新しい経験」を渇望し、わたしのからだを欲求が支配して、わたしはどこかにいかなければなりません。
こんな生き方は疲れると思う反面、「やらないで後悔するよりは、やって一つでも新しい発見をした方が楽しい」と笑う自分がいます。
どこまで行くのか、自分でもわかりません。どこで止まれるのかもわからない。だけど、袖触れ合う人との縁は大切にしたい。もっと流れるように生きたい。流れ落ちる先が、どんな世界だったとしても。
それじゃあ、また明日。