こんにちは。貫洞です。
不倫の話題ってすごいよね。世の中を巻き込む。矢口のときもそうだったけど、愛に対する自分の価値観を確認する作業って面白いんだよね。そして、そのときに取っておくとよいポジションが、平成の今はたまたま「婚姻最優先」。わたしも基本、そのポジションを取る。生きづらいのはいやだから。
少し正直に話していいかな。
人は、甘い夜には勝てない。
少なくとも、若いときのわたしは甘い夜に対して完全に白旗あげてたよ。
今現在、わたしはたまたま社会に「最適化」されている。それはたまたま会社をやっていることや、たまたま尊敬できる夫に出会えたことが大きな理由。
でも、過去を思い出すと、わたしはただただ甘い夜に溺れていた。息ができないくらい、愛していた。好きな人に会えないことは、呼吸ができないのとおなじくらいつらかった。胸がつぶれるかと思うほどに、男の人を愛した。たくさん愛した。
好きな人に見放されたら、もう生きていく意味が見出せない。好きな人が好きなものを好きになって、その好きがどんどんわたしの世界を「好き」で埋めていって、心も体も甘い夜だけを目指す。夜が、すべて。
甘い夜は、本当に甘い。あんなに甘いものを、わたしはほかに知らない。すべてから逃げ出してあの人の腕の中へ飛び込んだあの夜。脳髄に刻み込まれた男の人のにおい。
人間は、愛を受け止めるには弱すぎる。愛を知り尽くすには人生は短すぎる。愛を語るには、快感が強すぎる。人間は、なんて違うよね。わたしは、だ。
恋をしたら秘密の液体が止まらないバカなわたし。
いつしか快感と愛を混同して、ただわけのわからない言葉を叫んであっち側の世界へ飛ぶことばっかり考えてた。
だんだん自分が何をしたいのかわからなくなって、自分がからっぽになって、何も考えないことがいいことなんだと思うようになってた。刹那的でいいじゃんと思ってた。これが生きることだって思ってた。新聞なんて読まなかった。
娼婦の考え方は美しいと思っていた。「幼なじみと婚約」よりも「誰にでもからだを開く」ことを美しいと思ってた。
「目の前に現れた男の人を、いくらでも愛せる」
若かりしわたしの愛の泉は枯れることがなかった。いつも誰かを好きだった。愛してた。本能だけで生きてた。
あの頃の自分に戻りたいなんて思わないけれど、人は甘い夜には勝てないとも思ってる。
わたしが、その時期から脱出したきっかけは、ランニングだったんだ。早朝に走る。仕事後に走る。一日10キロ走るようになったとき、性欲の泉が、枯れた。こんなことあるんだ! って別の世界が開けた。走るのをやめたらまた元に戻ると思うと、走るのがやめられない。
起業も、夫とのつきあいも、すべてはランニングとともにあった。わたしの人生に転機があったとすれば、ランニングなのだろうな。
こんなバカの書いたものを読んでくれてありがとう。実は最近走っていないから(昔のことを思い出したいから走ってないんだ)、走ることによる変化を体で理解している。大丈夫、明日からまた走るよ。甘い夜から逃げ出さなければ、わたしは現代を生きていけないから。
それじゃあ、また明日!
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