(こんにちは、貫洞です)
わたしは一人暮らしをしている頃、よく一人でショッピングモールに行った。当時は南砂町の「スナモ」というモールに行っていた。やはりイオン系列なので基本、つくりが似ている。というか、おなじだ。おなじにおいがする。季節に合った音楽が流れてる。おなじ種類の幸せがうねっている。
一人でショッピングモールに行くと、マスクか眼鏡を付けていないとつらくなってしまう。両方つけたいが、そうするとメガネが曇るからどちらかひとつだ。大抵はマスクをしている。
寂しくなるのだ。しあわせの大きなうねりの中で、一人ポケットに手を突っ込んでいるのはたまらなく寂しい。カップルやファミリー層に圧倒的な力の差を見せつけられて落ち込んでしまう。
寂しさをまきちらさないように、つまらなそうな顔をして歩くしかなくなってしまう。用事があるから買い物に来たふりをしなければならなくなってしまう。なんとなく来たのではなく目的があるふりをしなければならなくなってしまう。面倒くさい。
結婚したらこの憂鬱は完全に消えるかと思いきや、そんなことはなかった。
年の差婚のわたし。夫は長時間歩くことができないから、ショッピングモールに一緒に行くことはできなかった。行っても、目的のお店を1つとか2つ見てパッと買っておしまい。これは、わたしの望む「幸せなモールの歩き方」ではなかった。わたしは、性根がマイルドヤンキーなのだと思う。
…つまり、ショッピングモールで日がな一日気心許せる人とダラダラ過ごす…みたいなのが理想なのだ。
それは生涯かなわぬ望みと知り、やっぱりつまらなそうな顔で、各地のイオンモールを見つけては入り、歩いては憂鬱と戦っていた。そうまでしてでも行きたくなる魅力が、イオンモールにあるのだから仕方ない。ちょっといい、ちょうどいいのだ。
よく「イオンしか無い」とか「えー、イオン?」とか言う人がいるが、単純に価値観の違いだと思う。安くて、一日過ごせて、本屋さんもあって、そこらじゅうに座れるソファがあって、お金を出してもよければ中くらいの金額でそこそこのおいしいものが食べられる。こんなリトルトリップが日本中どこにでもある幸せよ。一日三千円で幸せにしてくれる。それがイオンだ。
しかしどうやら今世の人生では、イオンモールを一緒に歩く相手は現れないままのようだ。一人で歩く少し憂鬱なモール。吸い寄せられるように入ってしまうモール。薬物のようだ。モール。
あるとき、そんな気持ちに風穴を開けてくれる小説を見つけた。飛鳥井千砂さんの「タイニー・タイニー・ハッピー」という小説だ。この小説には大型ショッピングモールが登場するが、これはどう見てもイオンだ。イオン以外ありえない。いや、越谷レイクタウン以外ありえないと思えるくらい、越谷レイクタウンだ。(実際は地方のイオンモールの可能性が高いが、イオンであることは間違いないと思う)
この小説内では、イオン タニハピ(タイニー・タイニー・ハッピーの略)というモールで働く人がたくさん出てくる。モールの中で働き、モールの中で出会いがあり、モールの中で出世したり結婚したり知り合いとつながったりする。すべてはモールで完結するのだ。ご飯もモールや近辺で食べる。
わたしはこの小説を読み、ものすごく越谷レイクタウンに行きたくなった。ちょうど会社も3年目になっていて、ものすごく疲れていた。
無理やり休みを取り、越谷レイクタウンに行ってみた。ただぶらぶらとしてみた。広い店内は歩いているだけで軽いウォーキング代わりになるし、イベントもやっているし、広々として気持ちがよかった。
耳に流れていくBGMのような人々のざわめきを少しずつキャッチしていく。わたしはこのキャッチ感度が異常に高く、レストランなどでは少しでも騒がしいと、隣のテーブルの会話と自分のテーブルの会話が混ざり、今何を話しているのかを見失うことがよくある。いやな耳、いやな脳だとずっと思っていた。でも、一人であるくモールでは、自分なんて消してしまえばいいんだ。
すっと、自分を消した。
「セールで買っちゃうとさあ、テーカで買う気なくなるよねー!」
「今日クルマを停めた場所はどこでしょう?」
「えーっとね、Cの15!」
「よくできました!」
「人多いな」
「もう冬休み終わったよねぇ」
「マジでぇ!?」
たくさんの会話や声が耳に飛び込んでくる。わたしはいないから、その人たちの会話で脳内が占められる。
世の中には、情報を遮断して思考をクリアにする、という集中の仕方があるようだが、あえてその間逆。脳内を処理する必要のない情報でいっぱいにしておくのも、たまには悪くない。
なにか集中して考えなければならないに周りがうるさいからイライラするのであって、一人でいるとき、何も考える必要がなければ、雑音で脳内をいっぱいにしてしまえばいい。雑音よ、わたしの脳内を勝手に通り過ぎてください、だ。
わたしはこうやって自分の体や脳を手放してしまうことがよくある。今は脳だけだが、若いころは体を自分の支配下から手放すことがたまらなく楽だった。
自分の体を、手放してしまうのだ。要は誰かと寝てしまうってこと。手放した体から得られる刺激は、どこか他人じみている。当事者意識のほとんどない行為。楽だった。
わたしの年齢だと、体はもう手放すことはできない。わたしの年齢と環境でそれをしたら(というかそれをこんなところに書く時点で)阿呆だ。
体を手放すことをやめたら、わたしは脳の手放し方を覚えた。脳を、手放す。何も考えないために雑踏を歩く。こんな方法があったのか。
頭の中を通り過ぎるたくさんの会話たち。自由を感じた。こんなにたくさんの人がいるのに、誰もわたしを知らない。遠くの町のショッピングモールって面白いじゃないか。そんなふうに思った。
たぶん、ストーリーを考えるようになってから、一人のときは「うるさい場所」が大丈夫になったんだと思う。
迷子になりそうなあやうい子ども、落ち着きのない女性、初デートであろう緊張感のあるカップル、熟年カップル、ワケアリっぽい人、声の大きい人、それに返す小さな声、意志の強そうな声、自分が揺らいでいるとき特有の声。
すべての人がその人の人生の主役だ。
こうやって、わたしはショッピングモールで一日中一人で遊んでいられる人になった。もう憂鬱にはならないし、寂しさに耐えられないこともない。遊びたい場所で遊んで、見たいものを見る。誰も隣にいなくても、誰かと過ごした楽しい思い出を思い出すことならできる。自分と向き合ってお話をつくる。歩いている人の声をもとにお話を作る。
うるさい場所が苦手なんだけど、一人の時はこういう理由で大丈夫…というお話。
それじゃあ、また明日!
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