表題の通りだ。
担当してくれていた美容師さんは店長になってお店を任されているし、同年代の友人知人は、大変かもしれないが仕事で面白いポジションを任されている。たぶんわたしは起業していなかったらきっと、彼らが何を話しているのかさえ理解できなかっただろうと思う。
若いころに夢を追う、というのは実は賭けだ。「あきらめない」というマインドは手に入るが、その代償として「叶うまで追う」を美徳と思ってしまうフシがある。引くに引けず、美味しい話を逃したりするのだ。
わたしはたまに会社で面接を担当するのだが、何を聞いても「まずは夢が第一なんで」と言う若者がたまに来る。わたしは別に、ウチの仕事を第一に考えてくれなくてもいい。結果が出せればそれで良い。ただし、このスタンスでクライアントの前に立たせるわけにはいかないなと思う。わたしの前ではいいけれど、クライアントの前では包み隠してくれよと思う。
隠しきれない人は申し訳ないが採用できない。仕事中に業務に誠実に集中することができる人にしか、ウチの仕事は任せられない。誠実でない人間には、営業の神様が微笑まないのだ。←これはわたしの考えです。
彼は不器用だったのだと思う。
そうやって、自分の芯はここにあるのだと声高に叫び続けなければ、夢が消えてしまうように感じているのだと思う。実際は、すかした態度で何もかもから逃げているだけなのに。
わたしの近しい人に「夢追い人」がいなくなった。みんな自分の特技を職に結びつけて上手に生きている人ばかりだ。声高に「これで世界取りたい」とか言う人がいなくなったのだ。もしかしたら、わたしがそういう人種としか付き合わなくなっただけかもしれない。
さて、わたしには少し仲の良い若者がいる。何者でもない若者の彼を自分の近く置いていることで、わたしの心は最初、ずいぶんと潤った。彼は夢も追わないし、急ごうともしない不思議な人だ。絶対一緒に仕事はできないけれど、友達なら問題ない。
しかし、彼が全然変化しないタイプの若者だったので、鑑賞のペースがどんどん低くなった。週に二度鑑賞していたのが、やがて二週に一度になっていった。そのうち彼を見ることすらなくなるのかもしれない。
それでもわたしは、その若者に、適度に近くにいてほしいと思っている。たまに水をやるとピンと張るその緑が、なんとか枯れずに耐えるその花弁が、憐憫の情を誘うからだ。彼が何者かになる日は来るのだろうか。それとも物事に折り合いをつけてうまく生きるようになるのだろうか。わたしはぬるい目で観察していくつもりだ。
最後になるが、「夢」というのは欲しいものやなりたい自分の姿ではなくて、生きることに対する希望そのものだとわたしは考えている。今際の際で、走馬燈がかけめぐっている中で「ああ、人生とはなんて素晴らしいんだろう……もっと、もっと生きたかった……」という気持ちこそが夢だとわたしは思っている。
やりたいことがある人は、反射的に体が動いている。
夢でなく、現実を生きながら実現させようとするのだ。最近それがわかった。
「この職業に就きたい」というのを「夢」と言わないでほしい。「夢」は手が届かないものという意味も含まれていて、職業を「夢」と考える人は搾取の対象となって、幸せにならないから。どんなことも現実にしていくための着実なステップを考えて積み重ねる毎日こそが、走馬燈を美しくする「夢」への階段なのだとわたしは考えている。
どうでもいいけど、若いころのわたしはドトールが好きすぎて、ドトールの加盟店となって店長をすることが夢だった時期がある。
ドトールのメニューでは、ミラノサンドのツナチェダーチーズが一番好き。海外でもツナサンドはあるんだけど、ツナの味がぜんぜん違って、この美味しい味にはならない。海外の食べ物は大好きだけど、たまにドトールが恋しくなることはある。帰国したら坦々つけ麺を食べてドトールに行きたい。
話が取っ散らかりすぎて、自分でもどうしたものかわからない。いったいわたしは、今日は何について書いたのだろう。
それじゃあ、また明日!