結婚は賭けだ。
そして、努力の積み重ねで家族の体をなしつづける、形のないエネルギーの集合体だ。「家族」という形があるようで、実はとてももろかったり、結婚とはとても不思議な制度だ。
いくつかの家族を身近で見ているが、仲の良いところもあれば当然、そうではないところもある。完全に冷え切ってしまっている家族もいる。そういう家族はどこか空虚で、もう家族の形をなすだけで精一杯になってしまっている。みんな窮屈そうで息苦しそうで、別の場所で自由に呼吸しようと「居場所探し」をはじめてしまう。
わたしは、結婚は「賭け」だと思っている。
何番の馬券を買うのか。次のルーレットでは玉が何番に落ちるのか。そういうのと同じ、賭けの要素があると思っている。
それは「この人でいいのか」という迷いの中でぎりぎり下す決断。ある人は「子供ができたから」という半ば強制的にその賭けに人生を賭している。またある人は、人生を賭けることが怖くてしかたなく、永遠に賭けられずにいる。(結婚を求められても延ばし延ばしにしている)
わたしは、事実婚という形を取っている。
これまでわたしは「事実婚である理由」を、夫婦別姓法案が通らないから、別姓にできないのなら事実婚しか選択肢がないから事実婚なのだ、と言ってきた。ほとんどの人はそれに納得してくれるし、時には共感してくれる。(絶対に共感してもらえなさそうな人にはそもそも事実婚という言葉を出さない。事情があって……と予防線を張って話題を変える)
今までもこれからも、事実婚以外考えられないと思っている。今更、苗字が変わるとか戸籍がどうこうとか覚えたくもないし、それに付随する相続やらなんやらの手続きも本当に面倒で仕方がないのだ。
そもそも、その瞬間の自分の感情にまかせて結婚など、なぜできようか。
その瞬間の感情など、次の瞬間には煙のように消えてなくなっているかもしれない。明日には今日の自分がいないかもしれない。それなのになぜ、感情任せに家族など持てよう。
はしごたんというブロガーがいる。彼女は子どもを持っている人を憎んでいる。わたしは子どもを持っている人を大変そうだなあと対岸の出来事のように見ている。はたしてどちらがより子どもに対して愛を持っているのか。わたしははしごたんの方が愛が深いように思う。
わたしの徹底した自分の人生に対する無関心は、自分でも恐ろしいものがある。最後の最後で自分を信じていないのだと思う。自分を信じられないから、自分の人生など賭けられない。愛など刹那的なものに人生を賭すなど、狂気の沙汰だと考えている。
よって、わたしの事実婚は、結婚という「賭け」から逃げた結果なのだと思う。
世の中が夫婦別姓に向けて動こうかというときに、わたしはこうしてまた、第一線から逃げる。
遅くなったが、サイボウズ青野氏の「選択的夫婦別姓に向けて国を提訴する」についてわたしの思うところを書いたところである。
わたしは常に、世の中がそちらを向きそうになると、ふいっとその場から目をそらし別の場所を見ているポーズを取るあまのじゃくである。性格は悪いですが、何か?
完