今、わたしには「書く場所」と決めている場所がある。まだ近場しか探せていないけれど、もっと見つけたいと思っている。
今わたしが「ここは書ける場所だ」と思っているのは、音楽のボリュームが大きいカフェ。日本にいるときなら、ここでは落ち着けなかったと思う。けれど、なぜだかここだとこのボリュームが落ち着くのである。
いろんな雑音が音楽に消されていくように感じる。
音楽は、深く味わって聴くのも良いが、ただ身を任せてしまえる「勢いのある」ものがほしいこともある。音楽の発祥は神への祈りなのか、それとも人の、満たされぬ欲望からか。
文章も歌も、発信行為だと思っていたのだが、どうやら「まっすぐ発信できるもの」でもないらしい。ただそこに置いてある文章、そっと寄り添ってくれる歌というのもある。受信側の状態によってそれは変化するので、発信側にはどうしようもない部分もある。
固定の自分を応援してくれる人にとって以外は、まっすぐに受け取ってもらうことは非常に難しい。だから悩むし、厳しいのだと思う。
しかし、特定の発信をし続ける限り(わたしの場合はブログ更新が今それにあたる)、誰かとの交信は止まらずに続いていく。世の中とつながっていたいから、わたしは今日もこうして書いている。
自分でもびっくりするのだけれど、毎日更新で毎日二千文字以上書いている。嫌々書いている日は一日も無かったと思う。嫌々になった時点でやめていると思うし。
人は自分が発信しやすい手段を手に入れたとき、その力が凝縮され、その人を形成する大きな要素になるのだと思う。
そろそろわたしも歌を歌いたいのだが、なかなかそこまで回っていないところが目下の悩みである。
音楽のボリュームが大きいカフェは、そんな悩みもとりあえず受け流してくれる。ぼんやりと虚空を見つめている時間。手を動かして記事を更新している時間。ただリズムに身を任せている時間。全部まとめて「今」がここに凝縮されている。
ここからちょっとだけ自分語りになる。
わたしはクラブシンガーをしていた頃、矜持みたいなものがあった。それは、「お客さんが初めてその曲を聴いたときのことを思い出せるような、時代を超えて“あの頃”を感じられるような歌が歌いたい」ということだった。
これは非常に自分勝手な矜持だった。だけれど、当時のわたしにとって、この矜持があるから頑張れているところがあった。
「自己流にアレンジを入れて歌う人もいるけれど、わたしは原曲のアレンジを大切に歌おう」
そんなことを考えていた。
時が流れ、歌うことをやめたり、また歌い始めたりして、今とても迷っている。「自分らしく」がいいのか「わたしの矜持」を守るべきなのか。どっちもやればいいだろと言われても、そんな簡単にいかない。音楽の神様も飲食店の神様も、とても手厳しいのでわたしは今少々困っているのである。
そして、二年くらい前にちょっと振り向いてくれた「文章の神様」に媚びを売って毎日をなんとか生き抜いているのである。
今はそうすることでしか生きていかれない。
それじゃあ、また明日。