こんにちは、かんどーです。
人には、自分ではなかなか気づかない癖というものがあると思います。わたしは自分では「それなりに素直で」「それなりに柔軟で」「人とうまくやれる器用な人」だと思っているところがありました。でも、それには裏があって、本当の自分はちっともそういう人ではないということに最近気づきました。
それは、わたしが自分の感情を「一定以上揺らさないように、入念にコントロールしている」ということです。
わたしは、場の雰囲気を自分が調整しなければという強迫観念がある。これまでの人生で、わたしはずっとずっと、誰かのクレームを吸収してきた。そういう仕事を続けてきたということだ。わたしは場を調整しなければいけない。わたしは笑っていなければいけない。わたしは自分の感情を揺らしてはいけない。
わたしは自分でわかっている。わたしが感情的にものを言うととても頭が悪そうに見えるということを。そりゃあ大した教育も受けていなければ、読書量も並程度、経験だって豊富そうに見えて実はそうでもない。だったら自分という素材を倍くらい良く見せる努力をしなければいけない。そのための手段の一つが、感情コントロールだ。
たとえばコンビニのレジや駅の改札で、執拗に店員さんや駅員さんに怒鳴り続けている人がいたとする。そこで「早くしろよ」とイライラしてしまうと、ただの怒っている人になってしまう。だからわたしはあえて、そこで周りの人に話しかけたりする。
「困りますねえ……(小声)お急ぎですか?」
など。そうして自分はその状況に慌ててもいないし腹を立ててもいないことを周りにわからせる。そうしておいて、友達に電話をするように警察へ電話をかけてそこへ来てもらうのだ。もう、日本のモンスターカスタマーは放っておいていいレベルじゃない。
セブに来てほんの少しだが仕事をする機会を得て、まったくクレームを言われていないことに気づいた。屋台村が休みの週があっても「なぜ今週は休みなんだ!」とか絶対言われないし、「早くしろよ!」と怒鳴られたこともない。クレームを言われず、怒鳴られずに3週間仕事をつづけたことはもしかしたら人生で初めてかもしれない。
高校生の時からコンビニバイトで「まだ俺のタバコ覚えられねえのかよ! 頭が悪いんじゃないのか!」と怒鳴られていたし、飛び込み営業の時は「帰れ!」と塩をまかれることが多かった。そういうものだと思っていたし、それがあるからわたしはお金をもらえるんだと思っていた。
そうしているうちに、わたしは感情のコップがある一定以上になると、コップを安全な場所にうつす癖がついた。具体的に言うと、クレームを言われて、自分がまったく悪くないクレーム(お前からスマホを買ってやったのに、競馬アプリで入力ミスして大損した、お前が俺にスマホを売らなければ俺は損をしなかった! 等)を受けているときなどは、カチッと感情のスイッチを切る。そして何事もなかったかのように別の話を始める。
「競馬と言えば、アプリを使っていらっしゃいますよね。重くないですか? ちょっとスマホの調子を見ましょうか」
と言ってお客さんのスマホを使いやすい状態にして、ついでにきれいに拭いて「はい、できました」と手渡してあげる。「それで、なんでしたっけ? 最初のご用件」と聞き返すと「いや……まあいいや」となる。
一事が万事、そうやって「相手の怒りに自分がつられないように」自分の感情のコップを安全な場所に隠して生きてきた。
その隠し場所はわたしにしかわからないし、いつどうやって隠しているのかももうわからない。気づいたら安全な場所にコップが移動している、という感じ。
出来事だけを記憶して、そのとき自分はどう思ったか、などは全部どこかに消してしまう。だからわたしには感情が無いように思える。
美しい海でジンベエザメと泳いだときも、「ジンベエザメは大きくて、よく餌付けされていました。この街はジンベエザメと泳げるという観光事業でもって発展したので素晴らしいと思います」という感想になる。そこにわたしはいなかった。美しい海とジンベエザメがただ、悠然とたゆたっているだけだった。
悠然とたゆたうのが好きだ。
森の中で深呼吸をするのが好きだ。
誰も自分を傷つけない場所にひっそりといるのが好きだ。
この自分は、たぶん生まれ持った自分ではないと思う。長年の営業、接客業の仕事で自分を隠し続けて、守り続けて、心を安全な場所にうつして守るというワザを身に着けてしまったのだと思う。
正直、接客業の仕事をまたできるかと言われたら「できる」。絶対にできる。ブランクは最短で埋めるし、販売も誰にも負けないくらいやるつもりでいる。でも、あの仕事がなつかしいか? またやりたいと思うか? と言われたら「どちらでも構いません」という無の感情になる。
それは、わたしが接客業という仕事を「好きだから」やっていたのではなく「やってみたら得意だったから」仕事にしたからだ。
だからまたやる必要があればやるし、必要がなければやらない。過去に接客業をしていたことはわたしにとって「そういう仕事をしていた」というだけのことだし、それによって人格が多少変わったことも、「そういうものだ」と思っている。
わたしはこんな自分がとても悲しいと思っている。常にグラスがあふれないように気を配っている寂しい人間だと思っている。
ホントは、このくらいだくだくにあふれさせたい! 男女の営みのときだけじゃなく、ふだんの自分も感情をむきだしにしてみたいという思いがある。強く感情を表現して、誰かの声にならない叫びをわたしが叫びたい!
水よ、あふれてしまえ!!
……と言いつつ、わたしはきっと、水をあふれさせることはしないと思います。何かのきっかけで、お水を満タンにして少しこぼしてみたい。それが歌であればすごくいいな。
優しい人は、「もっと気楽にやりなよ」と声をかけてくれる。しかし、優しい人がいくらそう言ってくれてもわたしは「気楽に」やることはたぶんできない。だって、どんなに頑張っても自分が満足できないから。
だから、「気楽にやっているように見せる」、このあたりが限界だろうと思う。
今日も明日も明後日も、死ぬまでずっとわたしは心のコップを安全な場所に移し続けるだろう。自分の心が壊れてしまって、何日も動けなくなるのが怖いから。
わたしはたぶん鬱になることも、精神的に病むこともありません。仕事を任せるには最適な人材であると思います。そのかわり、代償として感情のコップをいっぱいにすることを手放しました。
リスクを取ってでも、感情のコップをあふれさせてみるべきなのでしょうか。
わたしはすべてがわからなかった。
(坂口安吾さんの言葉をひとつお借りしました。大好きなんです。それじゃあまた明日)