こんにちは、かんどーです!
恥の多い人生を送ってきました。(もういいから)
わたし、10年前に青年海外協力隊でインドネシアに行ったことはあったけど、その後は海外旅行とは無縁でした。お金だってかかるし、今みたいにLCCもなかった。だから海外旅行なんてわたしには無理……そんなふうに思っていました。
ちょっとお金のある夫さんと行くこともできましたが、夫さんは「ラグジュアリーなツアー」的なものが好きなので、バックパッカー的な旅がしたいわたしとは趣味が合いません。。一度温泉に一緒に行ったときでさえ、やりたいことがまったく重ならなくて非常に困った思い出があります。一緒に沖縄に行った時も結局大喧嘩しましたし。
さて、わたしは今セブ島に住んでいて、少し前までは「海外旅行大好き!」みたいな人でした。
でも実は、初めて自分で決めた海外旅行は、実は死にに行くつもりでチケットを取ったんです。今日はそのことを少し、お話します。
※自殺願望、希死念慮のあるかたはここから先は読むのをお控えください。
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5年ほど前だっただろうか。いや、3年前だっただろうか。今となっては細かな日付などわからない。でもとにかくわたしはその時死にたくて、死ぬよりほかに自分を保つ方法が無いように思えて、死ぬことを考えることだけが今日を明日にする唯一の方法だった。
仕事で人から怒鳴られ続ける日々が本当に嫌だった。自分が悪くなくても謝らなければならない仕事にたいして、わたしは心から「向いていない」と思ったし、その仕事で会社経営をしている自分のことを「不幸製造機」だと思っていた。自分がやってきついと思う仕事を人にさせるのが一番キツかった。
その日もいつものようにコンシューマに怒鳴られて、心身共に疲弊していたところに、追い討ちで「もっと数字(販売台数)を出してもらわないと困る」と言われて、もうどうしようもなくなった。元気な時なら「こうやったら売れるだろう」という試行錯誤をトライアンドエラーして、PDCAサイクルを回すだけなのだが、弱っているときはそこが回らない。手痛い停滞である。
帰り道、某私鉄の駅のホームで、電車に飛び込むことを考えた。(この私鉄は今でもトラウマになっており、実は今でも一人ではこの路線に乗れない)本気だった。
自殺者のことだけを考え、帰宅するとわたしの仕事に無関係な家族が待っていた。この時わたしは、わたしの仕事のつらさは誰にも理解できないし、理解できない人に話すことがとてもしんどい思いだった。だから誰にも話さなかった。仕事の関係者に話そうとしても、「愚痴っすか?」とあからさまにイヤな顔をされて以来、話すことが怖くなった。
わたしは自室にこもり、死に場所、などで検索をした。
するとあるサイトで「海外で死ぬ」というアイデアが書いてあった。アジアの熱い国で最後にぱあっとお金を使って一晩楽しみ、そのまま死ぬというのだ。その街では外国人観光客が一人くらい死んだところで誰も何とも思わないし、消えるように死ねる、とかいてあった。
わたしはすぐに飛行機を手配した。LCCというものができたおかげで、アジアの熱い国はとても近くなっていた。旅の予定は2ヶ月後。それまで生きるか、という惰性だけで今日が明日になり、また嫌な毎日が始まっていった。
わたしの旅程は5日間だった。当時はそのくらいしか休みが取れなかったし、死にに行くのだからそんなに長期間いらない。むしろ2泊3日でも良かったが、「気持ちが変わるかもしれない」というわずかな可能性を信じる自分もどこかにいたのである。
アジアの熱い国に到着して(ぶっちゃけると、タイです)、むわっとした熱気に包まれると、急に自分がリセットされた感覚になった。どこへ行けば市内に出られるのかもわからないから、人に聞くしか無い。英語もできないし、近くを歩いている日本人に声をかける。その人はそつなくバスの場所を教えてくれて、バスの中でもスマホの地図アプリを起動して「ほら、順調ですよ」と画面を見せてくれた。しかしこの男はわたしの顔をほとんど見ず、ただタイの盛り場に行きたそうにしていた。この男の持つ適度な距離感は、わたしを適度にくつろがせた。
男とはバスを降りて自然に解散した。
わたしはわたしが自分で手配したホテルに向かい、迷いながらなんとかたどり着いた。受付で通り一遍の挨拶を英語でされたのだが、「きれいな英語、きれいな笑顔」と感じただけだった。部屋は無駄に豪奢で所々チープだった。1泊5千円くらいの宿だったので、無駄に広かった。
わたしは初の海外一人旅だったが、まったく浮かれていなかった。なにせ、どこかでどうにかして死ななければならないのだから。しかしホテルにチェックインしたあたりで、わたしは旅の忙しさに忙殺されていた。いちいち新しい景色に驚かなくてはならないし、いちいち地図を見なければならないし、いちいち行動に理由をつけなくてはならない。自由とはそういうことらしかった。
仕事と家の往復しかなかった毎日とはうって変わって、自分の行動を自分で決めて行く旅という行為が、なんというか最高の気分転換になってしまったのだ。
「ホテルに着いた……次は、ごはんだ」
そのホテルは朝食のみ付いているホテルだったので、夕食は自分で決めなければならなかった。ガイドブックにはたくさんのレストランの名前があったが、わたしはどこにも興味が持てなくて、それより通りすがりの屋台でラーメンでも食べたいと思った。
ホテルから出てすぐのところに、麺をゆでている屋台があった。タイ人の人と話をしてメニューを決めなければいけない。当時のわたしはそれがとてつもなく面倒くさかった。
しかし、その屋台のお兄さんは、わたしがメニュー写真を眺めていると、後押しするように「ここ座って」「はいお水」「どれがいい?」と身振りで示してくれた。本当は麺の太さなどを自分で選ぶのが屋台のルールなのだけれど(ガイドブックに書いてあった)、「スパイシー?」というたったひとつの質問にすべてを集約してくれた。胃を壊していたわたしは、その質問にノーと答えて、プラスチックの椅子に座って待っていた。
道行く人がわたしを見たり見なかったりした。見るのはおもに観光客。「この店は入って大丈夫か?」という判断を、入っている客から推察しているようだった。わたしはそんなことどうでもよくて、そういう人が流れて行くのを景色と一緒にして見ていた。
運ばれてきた麺は、やさしい味だった。
鶏ガラスープとあからさまな味の素の味。でも味の素だって人が使って、人が料理に使えば調味料の1つ。細かいことなんて気にしないで、今はお兄さんが作ってくれた麺をただ味わって食べよう。そう思った。美味しく作って出そう! という気概を感じた。味の素は悪い、というようなことを言う人に何人も会ったことがあるけれど、この麺をつくったお兄さんは、味の素に負けてなかった。人類が味の素に勝った瞬間をわたしは見た。
日本で働いていたときは、何を食べても味がしなかった。話のわからない人と食べると手の込んだ料理も、味を失ってしまうのだ。わたしの脳は食事をおいしいと感じることを拒否していた。食べないことで死ねたらいいなと思っていたのも事実だ。
わたしはスープの後、麺を食べ始めた。ツルツルと喉にすべって、胃に落ちていく。ああ、今わたしは食事をしている。やさしい味のスープと舌触りの良い麺を確かに食べている! 今、わたしの体は生きることを受け入れている! 一杯35バーツ(120円くらい)の麺をすすりながら、わたしは軽く泣いていた。
食べ終わったあと、わたしはお兄さんにカメラを見せて「写真を撮っていいか?」と聞いた。断られると思ったのに、お兄さんはにっこりほほえんだあと、いきなり屋台の定位置に立ち、姿勢をきりっと正して、顔を思い切りイケメン顔にした。もともとかっこいい顔だけれど、あからさまにカメラを意識した顔を作ってくれたことに、わたしは大いに笑って、また軽く泣いた。
その時の写真。
お腹がいっぱいになった自分を、胃のあたりをさすりながらいたわるように歩いた。タイの街はあちこちに屋台があって、どこの人もきちんと食べ物を売って生きていた。目が合うとにっこり笑ってくれた。誰もわたしのことを否定しなかった。
とても暑かったので夜市で洋服を買った。初めての値段交渉は、今思うとかなり下手くそだったのだと思うけれど、お店の人との会話が楽しかった。彼女たちが「これ似合う!」などと体を寄せてわたしに洋服を合わせてくれるとき、肌と肌が自然に触れ合って、わたしは人と触れ合うことって嫌なことじゃないなと思った。日本ではどんなに仲の良い友達とも握手もすることがないけれど、タイでは他人ともこんなに密着する。ここで友達ができたらどんな感じなんだろう……わたしは自分がどんどん笑顔になっていくのを感じた。ぎこちない笑顔だったと思うけれど。
ホテルの部屋に帰り、夜市で買った服に着替えた。睡眠薬も飲まないのにすぐに眠れた。翌朝起きると、自然な空腹を感じたのでホテルの朝食を食べに行った。そこには一人の気品ある50代くらいの女性がいて、カタコトの英語で朝食の説明をしてくれた。一生懸命英語を話そうとするわたしを、女性はゆっくり待ってくれたし、食堂で一人朝食を食べていた男性も、あたたかく笑っておはようと言ってくれた。彼女が作った朝食は最高に美味しかった。
行くつもりなんてなかったけれど、ワットポーに行った。ワットポーの中にある足つぼマッサージにも行った。それから中心部にある秋葉原のような電脳街へ行って、海外で携帯がどんなふうに売られているかを見たりした。普通のマーケットなども見て、お腹がすいたらご飯を食べて、ときに言葉が通じなくて大変だったりして、忙しく1日を過ごした。翌日も、翌々日も楽しかった。気がついたら旅行の最終日になっていた。
わたしはホテルの部屋で次の旅行先を決めた。フィンランドだ。
わたしはムーミンが好きだったから、死ぬ前にムーミンワールドに行っておこうと思ったのだ。これはフィンランドにしかない。フィンランドに行かないとムーミンには会えないし、そこでしか見られないお芝居やストーリーがある。よし、死ぬ前にこれ見ておこうと思った。3ヶ月先のチケットをすべて手配した。
わたしは思った。
これから先、常に次の旅の予定を入れておけばわたしは死ななくて済むのではないか。
旅はわたしを自由にしてくれる。死ぬ自由もありながら、楽しかったら死なないで帰ってくればいい。死ぬ自由を抱えて飛行機に乗り、気ままにやって、楽しかったらそのまま帰ってきて次の旅を計画する。無計画だっていい。どうせ死ぬ命なら、やってみたいと思ったことをすべてやってから死んだってバチは当たらない。
フィンランドは想像以上に楽しかった。フィンランド滞在中にまたタイ行きのチケットを取り、そのすぐ後に、今度は弾丸台湾旅行の予定を入れた。わたしは旅のとりこになっていた。仕事で嫌なことがあっても、旅に出るまではなんとか生きると決めたことで、ストレスを上手に逃がせた。そして、大胆な改革もやってのけるようになった。それまで気を使ってクライアントには何も言えなかったのだけれど、「これは無理です」「スタッフに負担がかかりすぎます、この仕事はお請けできません」などと言えるようになった。
これも死ぬと決めてやっと言えるようになった。人間とは、我慢をし続けていると我慢するのが当然になってしまう生き物だ。わたしは、死ぬと決めたことで、我慢するのをやめることができたのだ。
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わたしが死にに行こうとした国とは、タイでした。
しかし今では、タイに何度も行きすぎてタイに友達がいます。まさか自分に海外の友達ができるなんて思ってもいませんでした。海外一人旅がわたしに教えてくれたものは、「肩の力の抜き方」と、「頑張っても頑張らなくても、どうにもならないこともある」というある種の諦めです。
今となっては、あの時って実はさ! と話せますが、当時は生きることに必死でした。
もちろん、今は海外旅行に行くからと言って、いちいち死にに行っているわけではありません。ただの気分転換です。
でも、飛行機に乗るたびに思い出します。
あのときわたし、窓の外を見る余裕さえなかったよなあ、と。
ちょっと暗い思い出話を書きました。
それじゃあ、また明日!