今週のお題「おかあさん」
(公開する前から、おかあさんが怒り狂う気しかしないwww でも書くw)
★★★
「なんであんたはじっとしていられないの!」
地域社会がきちんと機能している九州のとある町で、おかあさんは今日も怒鳴っている。今日もわたしが商店街で迷子になったのだ。わたしが迷子になると、商店街でわたしの名前が放送される。わたしはそれがうれしくて、わざと迷子になっていた。おかあさんの名前も放送される。知り合いがテレビに出ているようなうれしさがあって、わたしは迷子になるとはきはきと自分とおかあさんの名前を答えていた。
おかあさんはわたしを完全に持て余していた。わたしは何をしても基本楽しかった。恨みを持つこともあったけれど、ちゃんとやり返していたから楽しかった。
わたしは落ち着きのない子どもだったので、教室で何かが無くなるとまずわたしのせいにされた。わたしは、やってもいない罪をかぶせられることは理不尽だと思ったので、そのうち本当に他の子どもの着替えを隠したり、大事にしているものを捨てたりするようになった。本当にやったことを怒られるのは理にかなっているし、ごめんなさいも素直に言えた。だってわたしが悪いから。だけど、やってもいないことをわたしのせいにされて、「あやまりなさい!」と言われても謝れない。だからわたしは、自分からすすんで悪いことをしたのだ。
おかあさんはしょっちゅう学校に呼び出されていた。そのたびにおかあさんは謝っていた。「悪いのはおかあさんじゃないから謝らなくていいよ」と言ってみたら、ゲンコツで殴られた(笑)お前が言うなって話だわな。
わたしは根が明るかった。後になってわかったのだが、自分の周りが常に騒がしかったり、立ち止まる暇がないくらい世の中が激しく動いているとき、人はにわかに興奮するのだ。
たとえが悪くて申し訳ないが、戦争で逃げ回っているとき、惨憺たる状況にも関わらず、人は興奮して、目の前の作業「逃げること」だけに集中していたという描写がある小説の中にあった。わたしはそのきもちがものすごく良くわかった。わたしも戦火の中で逃げまどっているとき、頭の中からほかのことが消えて、シンプルな「逃げる」になって、きっと興奮して、心に平穏が訪れた思う。それは人間が本能のためだけに生きるシンプルな行為だから。小さな揉め事や地域社会の中での孤独を感じることより、戦火の中で逃げまどうほうが楽だと言う人は必ずいる。そういう人が今はバックパッカーであったり、海外生活などをしているのではないかとこっそり思っている。
海外に行くという選択肢がまだ無かった当時のわたしには、いつまでたっても心の平穏が訪れなかった。
仲間外れにされる学校を卒業したら、今度は会社で男女差別されて、やっとおカネを稼げる仕事についたら、余暇の過ごし方がわからなくてアル中と摂食障害。なんだ、平和に暮らしているとわたしは苦しむだけじゃないかと思った。生活も仕事もめちゃくちゃ大変な時期の方がわたしは生きやすい。もっともっと、わたしは大変になればいいんだ。わたしはわたしに迷惑をかけてくる男の人と付き合っていると心が平和になった。振り回されている時間は、自分のことに意識がいかないので楽だったのだ。
しかし結局、そういう生活は何も生まないただのハムスターの車輪回しであると気づいて、もう少しマシになろうとした。その結果、起業して大変な思いをしたり、会社が安定したと思ったら海外で生活を始めたりしている。わたしは世の中にとって良いことをしようという方向に舵を切り替えただけで、わたしの本質はちっとも変っていないのである。退屈がきらいで、退屈すると自分で自分を傷つける。優しい人といると苦しくなる。
おかあさんは、わたしのことをどれくらいわかってくれているだろうか。
きっと少しもわかりたくないはずだ。大変な状況だったり、自分がまいた種で人が大変な思いをしているときでさえ、ニヤニヤしているわたしのことを、変な子だと思っているはずだ。
だけどこれだけはわかってほしい。
わたしは不器用だけれど、わたしよりもっと不器用な人がいて、その人たちのことを、わたしは理解できる。相互に理解しあうことで、わたしと不器用な人は、ものすごく強くなる。わたしはそういう生き方をすることで、自分の人生を「生きてきてよかった」という着地にしようとしている。
幸せになる道なんていくらでもあった。安定して生きる道もあった。毎日ほっとできるような道もあった。だけど、自分の心がいつも不安で、寂しい夜がたくさんあって、仕事がとってもきついいまの毎日を選んだ。
わたしは幸せになれるかどうか、自分でもわからない。
だけどわたしが死んでいくとき、たった一人「あなたがいてよかった」と言ってくれる人がいたらそれでいい。わたしはいつも、自分の人生の終焉は病院のベッドだと思っている。わたしの魂はわたしの体をゆっくり離れていく。その瞬間、わたしより不器用な人がベッドの横に座ってわたしの手を握っているんだと思う。
わたしは途切れていく意識の中で、それまでの人生のすべてを思い返す。ああ、あっという間だったなあと思いながら薄く目を開ける。そして、最後に、わたしと一緒に不器用に生きてくれた一人の男性の顔を見て、「ありがとう」と言いたい。
その人はきっと二回うなずいて、「ふっ」と笑って破顔し、優しい視線をわたしに向けてこう言うはずなんだ。
「いえいえ、こちらこそ」
その人が苦しい時にする顔をわたしは知っている。その顔をなかなか人に見せないことも知っている。「ふっ」と笑って煙に巻いてしまうことがほとんどで、わたしが死ぬときでさえ、きっとその癖が発動すると思っている。後からめちゃくちゃに苦しむくせに。ずっとずっと心の中で反芻するくせに。
ただ、最後に手を握る力が少し強くなると思っている。それがその人の持っている優しさで、わたしはたったそれだけで、幸せに死んでいけると思っている。ほら、わたし単純だからさ。
★★★
おかあさんが関係なくなってしまったwww
とにかく、生まれてしまってサーセンwww ちょっとでも世の中の役に立ってから死ぬので、これからもよろしくおねがいしますw
それじゃあ、また明日!
(この記事はガチで消させられるかもしれません)