接客業は卒業したよ! あけすけビッチかんどー日記!

接客業歴15年のかんどーが綴る、あけすけな日記。人生はチキンレースです。一歩引いた方が負け。たまに小説を書きます。お問い合わせはsaori0118ai2あっとまーくやふーめーるまで。

【クリぼっち必読】青年海外協力隊で日本の格差と向き合い、恋をした話

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こんにちは、今日はわたしのリアル過去からひとつ、かなり恥ずかしい過去を暴露します。わたしからのクリスマスプレゼントだと思ってください。

リア充どもは今日は外で遊んでるだろうから、クリぼっち共が読むことになると思います。大丈夫です、わたしのみじめな過去の話です。クリスマスの魔法がとけたらこの記事もまろやかに書き換えるでしょう。一晩だけの魔法だと思って読んでください。(当事者に読まれたらわたしたぶん死ねます)

当事者の人は万一読んだとしても読まなかったことにしてくださいね。

 

青年海外協力隊で恋をした話

単刀直入に書こう。

わたしは2008年に青年海外協力隊の短期隊員としてインドネシアに向かった。当時そのチームのメンバーは13人だった。3人はガチの長期隊員で、10人が短期隊員であった。当時わたしはやっと水商売、風俗、ヌードモデルを卒業し、音楽の世界に泥団子を投げつけてやけっぱちになっていた。光ファイバーの飛び込み営業の仕事で毎月100万くらい稼げたこともあり、手元にそれなりの現金があった。

しかしわたしにはわかっていた。この現金は「光バブル」によるただの現金であり、わたしという人間は何一つ変わっていないということを。光バブルが終わればまた、コンビニバイトで生活をつなぐか、風俗に戻るしかない。わたしを襲う閉塞感は何をしても拭い去ることはできなかった。

そんなわたしに「青年海外協力隊」という言葉を教えてくれた人がいた。なんでも現地での生活費が支給されるボランティアらしい。(もうちょっと言うと、現地生活費とは別で、日本で借りている部屋などをキープするための日本円も支給される)

わたしはそんなものがこの世にあることを知らなかった。海外なんて興味もなかったが、つなぎたてのインターネットで青年海外協力隊の事を調べるうちに、わたしは「これ、わたしが行くしかないじゃん」と思った。


わたしは思い込みが激しく、一度決断したことはその場で実現に向けて動き始める性質がある。ADHDの多動の一種だと思われるが、過集中したときのわたしのアウトプット、インプットの量はなかなかのものである。

この時もわたしは数少ない知人を頼りに「過去に青年海外協力隊をやっていた人」を探り当て、その人のアポを取り、

・どうやったら面接に受かるか
・何をアピールしたらよいか
・英語ができないのだがどうしたらよいか

を聞いてきた。その人は実に単純明快に答えてくれた。

・一番重視されるのは「人柄」と「健康診断の結果」!   健康診断書は完璧にしろ!   痩せすぎも太り過ぎもだめ!
・お前は教員免許持ってるんだから、それをアピールしろ!
・学童保育のアルバイト、スイミングコーチのアルバイト経験をアピールしろ!   他の仕事は言わなくていい!
・英語圏以外を狙え、英語が通じない国なら英語力は重視されない!

そして、グループディスカッションで万一英語での討論になったとき、一言も口を利かないのはマイナスポイントになる、とも教えてくれた。なので「とにかく議論の口火を切れ」とのことだった。彼が教えてくれたのは「この議題について議長をきめましょう。誰が議長をやりますか?」と言う意味の英語と「彼の意見に賛成ですね」という意味の英語だった。

議会を取り仕切る意思を見せて良い印象を勝ち取ること。そして、周りが何喋ってるかわからなくても、誰かの意見に対して「I agree with him」と頷きながらとりあえず言え! とのことだった。あと、英語は将来的に役に立つから、ほんの少しでいいから勉強しとけと言われたので、あわてて単語帳だけ買ってきて勉強した。そのおかげで文法はさておき、単語が聞き取れるようになった。

わたしは見事に青年海外協力隊に受かった。(健康状態が最高だったのは毎日10キロのジョギングをしていたからである。161センチ、51キロ、体脂肪率21パーセントのパーフェクト健康体の30歳であった! グループディスカッションも上記の方法を使って乗り切ったのだ!)

それまで出会ったことのない人種しかいなかった

いざ合格して、諸々の手続きを経ていよいよ出発の日。成田空港で一緒にチームを組む男女9人と合流した。わたしを含めて10人だ。女性が6人、男性は4人だった。

男女混ざりあって全員で自己紹介をした。

わたしは驚愕した。


A女「〇〇大学に在学中です」※超名門校在学中女子
B女「薬剤師をしています。今回は二度目の参加です」※5か国語ペラペラ女子
C女「高校で教師をしています。ボランティア休暇を取って来ました」※英語教師
D女「某国でのワーキングホリデーが終わったので参加しました!」※英語ペラペラ
E女「某有名企業で働いていますがこれから大学に行き、看護師になろうと思います」※意志強い

A男「公務員で専門職をしています。ボランティア休暇を取って来ました」
B男「〇〇大学の学生です、将来は教師になります」※超名門大学在学中男子
C男「〇〇大学を出て今は教師です。ボランティア休暇を取って来ました」
D男「大学生です、来年から〇〇省に就職が決まっています」
※日本で一番いい大学

 

わたしは「ワーキングホリデー」の意味がわからなかった。仕事をしながら休日ってどういう意味だよ!! と脳内が混乱した。しかし誰もそれを質問しないところを見ると、普通にみんな知っていることなのだろう。後でネットで調べようと思ってこっそりメモを取った。

 

……こんなメンツの中で、わたしができる自己紹介はなかった。


とっさに口をついて出たのは、小学校教諭の免許を持っていることアピール。

「スイミングスクールのコーチと、学童保育のアルバイトをしています。小学校教諭を目指していたのですが、勉強より運動を教える方が性に合っていました! 体力仕事はまかせてください!」

わたしの自己紹介はちゃんと周りになじんだ。「パン工場の仕事に飽きたので風俗に転職しました。小学校教諭の免許は誰でも入れる短大の夜学で取りました。でも教員やったことはありません。今回はヒマだったので来てみました」なんて口が裂けても言えるものか。

わたしはこの集団に完全にひるんだ。エリートってこういうことを言うのか……! みんな両親とかと今でも仲いいんだろうな……水商売とかしたことないんだろうな……と卑屈になっていた。


しかしわたしは持ち前の演技力で「体力仕事は任せて!」キャラを演じきった。どこへ行くにも好奇心旺盛、積極的、力仕事は男子と一緒にやる。女子たちとも明るい笑顔で接する。

そして周りのみんなは海外に行った経験がたくさんあったが、わたしはほとんどなかった。パスポートもこのために取ったぐらいだった。でも乗り切った。積極性だけはあったので、地元の料理を好奇心で食べてみたり、とにかく全力で楽しんだ。



そんな中で、わたしの心の中にどす黒い恋心が芽生えたのである。

しかも、その場にいる男子全員にだ。


なんだこのエリート連中。この中の一人でもわたしの結婚相手になってくれねえかな……そしたらわたしの人生変わるじゃないか! 特に〇〇省に内定決まってるこの男……最高じゃないか。


教師も公務員もいいじゃないか……定年したあともがっぽりお金が入ってくるそうじゃないか……わたしのようなどこの馬の骨かわからない女が起死回生するには、こういう男と結婚するのがいいんじゃないだろうか……


わたしのどす黒い恋心は、まったくわたしをセクシーにしなかった。ただギロギロと男を観察するだけだった。そしてこの男たちは性愛を日本に置いてきたようで、まったくもってアピールしている感が無い。風俗で培ったわたしのアピールを持ってしても、彼らがなびくことはなかった。

むしろ、名門大学に通っている女子の素朴な疑問に真摯に答えたり、ほんとうに「知識の交換」をしている感じがした。彼らが真剣に何かを話すとき、わたしは口をはさむこともできなかった。わたしの出る幕は「決断すること」だけだった。

いくつか案が出たとき、議論が停滞することがある。そのときわたしが「聞いた感じ、〇〇の案が楽しそうですね!」と明るく言うのである。彼らはわたしを特異な人間だと思いつつも、ある意味で認めてくれていたので、そういうときは「じゃあそうしよう!」とみんなの腰が上がるのであった。


わたしはこの滞在で、圧倒的な敗北感を味わった。

わたしはできることなら、こういう人たちと学生時代に友達になって、こういう人たちと話が通じるような自分になっていたかった。こういう場に、演技をしなくてもなじめる自分でありたかった。

 

しかし同時に、彼らの議論における「決断の遅さ」に気づいた。今決めても明日に持ち越しても出る結論は同じだとわたしは思っていたから、そういう場合今日決めて明日は作業に取り掛かるのが良い。そう思っていた。そして期間の決まっている青年海外協力隊の活動において、このスピード感は大切であった。

誰の意見も否定せず、平等に、かつ最適解を「決断」する。

わたしはこれだけは自分に備わった能力なのだと思った。時には突飛な案を自分で発案することもあった。しかしそういう場合、面倒な準備ごとは買って出た。そうすると人は「そこまでやってくれるならその案でいいか!」となるのである。


わたしは卑屈になりそうな自分を必死で抑えながら、自分のいいところを前に出していった。そうしてインドネシアという異国の地で過ごしているうちに、だんだん彼らと「横に立って」話せるようになっていった。

〇〇省に決まってるとか、〇〇大学とか関係ない。今回のミッションは現地の子どもたちを笑顔にすることだ。そのために全員がまとまることが大事なのだ。


そう思ってどんな仕事も積極的にやっているうちに、わたしは本当の恋をしてしまった。


誰に恋をしたかは言わない。だってその人たちが今もこれを読んでいるかもしれないから。ただ、ほんの少しの共通の話題があった。ほんの少しの共感があった。育ちの良さそうな彼の中に「そうじゃない彼」を主張する部分を見つけた。彼は変わり者だった。彼もわたしのことを変わり者だと言い、

「あなたはバックパッカーに向いてる。もっと旅をしたらいいのに」

そう言った。そうかもしれないと思った。その場では肯定も否定もしなかったが、結果としてその数年後にわたしはバックパッカーみたいな安旅を好んでするようになったから、その人の言った事が心に残っていたんだと思う。彼は、わたしの生き方をほんの少しだけ変えてくれた。


正直、わたしはもうその彼がどんな職業でどんな大学とかどうでも良かった。ただ、その人のことをもう少し知りたいし、帰国してからも付き合いを続けられたらいいなと思っていた。


だけど、言えなかった。

帰国してからのやり取りも、そっけないものだった。



みんな自分の生活に戻って行ったんだと思う。わたしはしばらくその人のことが頭から離れず、火のついていないろうそくをにぎりしめたままずっと、そのろうそくに火をつけるかつけないかで悩んでいた。


ずっと好きだった。

正直に言うと、つい最近までずっとだ。


人生で好きになった人、上位3人に入るくらい好きだった。


だけど今は、あの人のことは小さな思い出の一つに変わったし、あの大事な経験は私の宝物だ。そしてなかばやけっぱちで帰国して、すぐ起業した。

その起業は波乱万丈ありつつもわたしを社長にしてくれた。そうなったことで、アルバイト時代の友人からはFacebookを通じて「偉くなったんだねぇ」と嫌味が送られてきた。借金の申し込みも来た。でも、青年海外協力隊のみんなからは「おめでとう!」「絶対あなたは何かやると思ってたよ!」「社長すごく似合うよ!」とメッセージが来た。


当時のわたしはすべてがわからなくなった。

自分が愛していた底辺の世界の優しさは嘘だったのかと。結局、誰かが上に上がることを良しとしないのかと。そしてエリートたちの無条件に人を祝福できる優しさって何なのだろうかと。


好きだった人からもメッセージが来た。


その内容はここには書かないけど、半分期待していた通りのもので、もう半分はわたしの思っていた内容じゃなかった。よくも悪くも、彼はわたしの肩書になんの興味もなかったんだ。中身の一部に、当時ほんの少し興味を持ってくれただけ。


出会い方が違ったら、また違う結末だったのかな。


でもそうしたら今のわたしはないよね。

だからきっと、あの恋はずっと思い出のままでいい。
この曲を聴くと彼を思い出す。 

 

youtu.be

 

歌詞の「幸せと聞かないで」と言う部分に関してだけは、わたしは能天気なので常に「うん! 超幸せ―!」と答える。嘘でなく本当にそうなんだ。

だけど、このせつないメロディはいつだってわたしをあの、まだ若干青臭かったころの自分に戻してくれる。


クリスマスイブなので、まだ誰にも話していない恋の話を書きました。

ご本人が読んでも、どうかやさしいスルーをしてくださいませ。好きだった、それだけだから。

 

当時のわたし。


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それじゃあ、良いクリスマスを!