接客業は卒業したよ! あけすけビッチかんどー日記!

接客業歴15年のかんどーが綴る、あけすけな日記。人生はチキンレースです。一歩引いた方が負け。たまに小説を書きます。お問い合わせはsaori0118ai2あっとまーくやふーめーるまで。

あの日なにをしていたか

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みんなその話題でしょうし、わたしもそのことを思い出して書いてみようと思う。短くまとめる。

わたしの実家は当時福島県郡山市であり(今は父が病気して都心にいる)、本来そちらが心配でならないはずだった。しかしわたしの脳のリソースの9割は、起業したての会社のことで持って行かれていた。


受注が決まっていた仕事のはずが、「自粛」「震災による被害を案じて一旦契約破棄」というその日突然決まったルールによってすべて覆された。

新しく立ち上げた会社で仕事を取ってくる、というのは並大抵のことではなかった。わたしは自分の会社を立ち上げて、すぐに営業回りをした。1都3県の携帯ショップほとんどに飛び込み営業をかけたのだ。そうやって足で稼いだ仕事が一つ一つ、契約書になり受注になっていくのだ。

ほとんどの仕事が2日だけとか、1か月だけとかそういうものだったので、営業は毎日フルで回らなければ仕事が続いていかなかった。そうやってがんばってがんばって、やっと得た仕事が数件、ようやく実稼働へとこぎつけたところに震災があった。


「上の意向でもう自粛ということに決まりました」


それは覆せないもののようで、ものすごくキツかった。起業したてなので、仕事のキャンセルポリシーをまだ作れていなかった。わたしはこの一件でキャンセルポリシーをきっちり設けるようになり、今後同じことがあってもあわてない体制づくりをまずやった。

そして金策に走った。

仕事がなくなっても、スタッフには仕事を依頼してしまっている。(ウチは派遣会社だ)スタッフに支払う給料は確実にあるのだ。それなのに、仕事はなくなってしまっている。

中には「実働したことにしてお支払いします」という企業もあり、非常に助かった。しかし、なし崩し的ドタキャンに泣かされ、わたしは持てる現金をすべてかき集め、助けてくれる人すべてに声をかけ、なんとかその月の給料を支払うことに必死だった。


地方の人から震災のことを聞かれることがある。その時なにをしていたか。


わたしの答えにはみんなちょっと困惑するようだ。「仕事をドタキャンされて会社のお金がなくて、ずーっと金策に走ってたよ」と答えるから。


人の生命活動は地味に毎月毎月鼓動を打つ。月末に振り込まれるバイト代や給料がなければ生きて行かれない命がある。一次災害である震災の被害者の方への思いはもちろんある。しかしそれとは切り分けて、二次災害で人が死なないようにしなければならない。

わたしのパーソナリティは本来であれば、現地にボランティアに行くタイプだ。しかしあのときは会社のお金がなくて、身の回りの人の生命活動を止めないために、給料をちゃんと支払うこと、それだけに脳のリソースが集約されてしまっていた。


お金がないことは、心を殺す。


わたしは今後の人生でもう、「お金がない」と言いたくない。


そのためになら激務にも耐えるし遠方の仕事もいくらでもするし、体力勝負と頭脳勝負の両方で勝ってやる、と思えるくらい、あの日そんなふうにしか思えなかった自分のことがきらいなのである。


以上である。