こんにちは。
昨日の記事にブコメで「うちの奥さんは英語得意です」「うちの嫁が英語勉強してます」というコメントがいくつかあり、おおおおお!! 離れているけど同志がいる!!! と勝手に興奮していましたw
いつもありがとうございます。
いつもながら、みなさまの奥様愛、家族愛、(及び一部の方の性欲)に感じ入ります。
さてさて。
「若い頃はよかったなー!」
…って思ったことがある方に質問です。
何がよかったです? 徹夜しても大丈夫な体力ですか? 今よりもハリのあるお肌ですか? なんとなくワイワイした感じやにぎやかな世界がきれいだった?
わたしはたとえ今の自分に残された余命があと5年だとしても、若い頃に戻りたいとは思いません。わたしの価値観が、もう「若い」を「良い」と認められないところまで心を侵食してしまいました。
一応前置きしますが、今日のブログはかなり毒を吐きます。
ブログを読んでキレイやポジティブをチャージしようなどと考えている方は、早く違うブログを読みに行った方がいいです。今日のわたしのブログは、あなたのMPを削るおそろしいブログになりそうです。
カワイイは作りません。
■「若い」が嫌いになったきっかけは、ある気持ち悪い場所
ギリギリ「若い」と認識されるレベルだった30代前半に、わたしはある場所へ行きました。その場所で、わたしは「若い」を永遠に手放したいと強く思ったのです。
そこは憎悪の渦舞く場所でした。ある人を中心に、初めて会う人やなじみの人が魑魅魍魎のようにマウンティングを繰り広げる、見苦しくて息苦しい世界でした。一人で行ってたら秒で回れ右して帰宅してました。でもそのときは人と一緒だったから、秒で帰ることは無理だった。少しはその場に「居た」実績を作ってからでないと帰れない状況であったのです。
※SMクラブやハプニングバーではありません。念のため。
その場所で男はどれだけ遊びを知っているかで「上」か「下」かが判断され、女はどれだけ周りの人間関係を知っているかと、どういうポジションを取るかで「上」か「下」かが判断されました。「上」にいる男と親しい女は無条件で「上」になるようでした。それは若い女がそうしてました。その方が手っ取り早く「上」になれるからです。
また、男でも女でも「芸で身を立てている」人はシード選手のように優遇されているようでした。まったくもって気持ちの悪い世界でした。
その場所で、たまたまそこにいた女達は、「若くないけど頑張っている」もしくは「若くて愛される」のどちらかに分類できました。
そして、その場にいて中途半端に若くて、愛されキャラじゃないわたしにとっては居場所がなかったのです。「若くないけど頑張っている」女達はわたしを「若い」とみなしたのか、会話の端々に「若い子はいいわねぇ~(でもあんたとはもう話さない)」という拒絶の意志をあらわしました。
「若くて愛される」タイプの女は男の横を離れませんでした。
そして、その場にいる男のどれにも、媚びてまで話したいと思えなかったのです。ぽつーん。完全ひとり。
集団耐性のないわたしは同行者に「早く帰るぞてめえ」の睨みをきかせる以外、まったくやることがありませんでした。有名人がいたらしいですが、正直興味なし! むしろ声でかくてうぜえ。
わたしはその場にいる全員を憎みながらその場にとどまっていたので、約1時間という凝縮された時間の中で、産めるだけの憎悪の卵を自分のからだに産み付けてしまい、それが今更になって孵化し始めてしまったのです。体中に蓮がこびりついた錯覚をもよおす、気持ちの悪い感覚が全身を襲い、もうわたしには逃げ場がなくなりました。だからこうして吐き出しています。
■「若い」なんて何の魅力でもない
その場所はわたしが「若い」を忌み嫌うトリガーにはなりましたが、そもそもわたしは「若い」が嫌いでした。「若い」ってめんどくさいんです。
・「若い」というだけで無駄な残業を引き受けなければならなかった
・「若い」というだけで無知である顔をしなければならなかった(無垢な顔?)
・「若い」んだから「かわいく」いなければならない無言の圧力があった
これらの圧力はほんとうにうざったく、このせいでたくさんの人と無用な喧嘩をしたり、無意味に人を嫌ったりしてきました。ほんとうに嫌いなのはこれらの考え方であって、その言葉を放った人ではなかったのに。
「若いんだから体力あるでしょ」と残業を押し付けた人に言いたい。若い人の時間は年長者の時間とは違う時間軸にあることが多いです。今で言えばスマホゲームの時間軸があったり、オンラインゲームの時間軸があります。昔も今も、若い人にはその時にしかつかめない、そのときにしか楽しめないものの占める割合が大きいのです。
体力がどうこうじゃなく、その人の「予定」はどうか? と聞いてくれればこれほど憎みませんでした。そして体力がある、という言い方は「太っている」の揶揄にも聞こえたので、当時のわたしはいたく傷ついたのでした。(デブだから残業させられるんだ、と思い、職場の人全員を憎んでいました。呪ったことも)
「若い人の無知はかわいい」みたいな風潮も嫌いでした。わたしは無知であることが最大の恥だと思って生きていたので、知っていることについては口に出したいと思っていました。しかし、少し口を挟むと「違う違う!」とさえぎられ、わたしの意見を違う言葉で言い換えたことを「こういうことだ!」と説明してきました。「意味一緒ですよね?」と聞こうものなら「これだから最近の若い人は…」です。
いや、わかりますよ。若い人がちょっとしたことを知らなくて、「えっ? どういうことですか?」っていう姿ってかわいいですよね。教えてあげたくなりますよね。でも、若いからといってすべての人に「かわいさ」を求めなくていいですよね。中には自分の意見を言うことが好きな人だっているし、年齢関係なくフラットに人と付き合いたい人だっています。
そして「若い人(特に女)がいると場が華やぐ」とかいう謎の概念。そんなに華やぎが欲しいなら、花を飾るかコンパニオン呼んでくれと思います。エレカシの宮本さんを見習え。
わたしはこの風潮があまりに嫌いで、すぐにパーティーコンパニオンに転職したことがあります。同じ「華やぎ」を求められるならば、安い時給で使われてる必要ない。何軒か、パーティーコンパニオンの会社の面接を受け、そのたびに「容姿が規定に満たない」等言われましたが、「どうだめなのか教えて欲しい」とお願いし、化粧の仕方や服の着方、姿勢などを直してやっと受かりました。「姿勢はいいから立食の時に使えそう」というのが採用の理由だったようです。
コンパニオンの世界は「華やぎ」をギュッと集めた世界でした。事情のある子が働いているというのもとても興味深かった。時給がきちんと高かったので、わたしは「仕事として、この時間はしっかり場に華を添えよう」と意識が高まりました。きれいなベベ着ても大して綺麗ではなかったので、変なトラブルに巻き込まれることもなく、1年以上働いてました。(工場のバイトもかけもちでやってたけど)
とても濃いメイクをしていましたし、矯正下着でウエストのくびれを作ってドレス着てました。女らしく見える髪形は先輩のお姉さんに教えてもらって、素直にそのようにしていました。地の顔やスタイルがイマイチでも、大人数の現場などではそれなりに「紛れ込んで」いたというのが実情でした。働き続けるだけで、かなりの「カワイイをつくる」努力が必要でした。
働いてみて思ったのは、普通に働いてる若い女の子に、飲みの席とかでの「華やぎ」を求めるのはやっぱりおかしいんだなと思いました。「カワイイは、金で買える」が正しいね。お金をもらったらすんなり「カワイイ」を作る意欲がわいてきたので。
そして、もしあの憎たらしい糞みたいな場所に行ったのが、今のわたしだったら、あんなに苦労しなかったと思うのです。
今なら、あの場にいた「若くない」お姉さん達から敵意を向けられなくて済んだと思うのです。ほんとに思うのですが、ここ2年で、同性に嫌われることがほぼ無くなりました。一人旅などで出会う人と話していても思います。初見で嫌われることがなくなりました。既婚者の雰囲気がしっかり出てきたのも理由だと思います。同性からの敵意がこちらに飛んでこない。生きていてすごくラクになったのです。
もちろん、異性からのアクセスも全く無くなりました。「既婚者オーラ」すげえ…! こんなに生きるのがラクになるなんて…!
■若い頃になんて、二度と戻りたくない
今、やっと自分を「もう若くない」と認識できる年齢になりました。おかげで、自分の好きなように生きる道があちこちに開かれているのが見えます。若い頃って「カワイイ」の大通りが大き過ぎて、横道に行きにくかったです。横道には、「こじらせ」「不思議ちゃん」「コスプレイヤー」「本の虫」「ヤンキー」などがありますが、「カワイイ」が一番モテるし、カワイイを目指せとみんなが言っている気がしました。
ある程度の年齢になると、「カワイイ」の大通りが消えて、いろーんな道に自分の足で踏み出すんですよ。「自由人」「旅行好き」「仕事で出世」「子育て」。それぞれの世界に各々のタイミングで踏み出し、それまでの経験で得た、当たり障りの無いコミュニケーションでもって、どの世界に本格的に踏み込むかを探っていくわけです。
この年になって「カワイイ」やってる人ってもうほぼいないです。
■カワイイを極めた人が意識高くなるのはなんで?(笑)
これは本当に不思議なのですが、若い頃に「カワイイ」をしっかり極めた人たちがこぞって30代に差し掛かるころに「意識高い系」に転向する、あれは何なの?(笑)どこかの雑誌やどこかのベンチャー社長たちが教えたりしてるの?
よくわからないセミナーやお茶会してる人たちは、普段どうやって生活してるんだろ?
長くなりましたが、ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。ちょっと映画のワンシーンに、若くてカワイイ女の人が登場し、あまりにその立ち位置(カワイイを武器にしている)が鼻につき、書かずにはいられない気持ちになってしまいました。
毒が抜けたので、またしばらく普通に更新します。
スイカを食べて、昨日までの自分と夏にグッバイだお(^ω^)
昔からそうなんですけど、わたしって負の感情を電池みたいに貯めてしまうんです。その場でピカチュウみたいに放電できればいいんだけど、その場ではなんか、出せない。
今は夫の助言もあって、その日嫌なことがあったら、その日のうちに「その人に直接」何がどう嫌だったのかを言うようになりました。どんな小さなことでもです。だから今はほとんど蓄積されていません。
身近な人でも「今の言い方は傷ついた!」とか、明るくですがちゃんと伝えます。そうすることで、実は言わないよりも人との距離が縮まっていることに気づきました。夫に言われたとおりにしているだけで、人との付き合い方がうまくなったような気がします。
それで、この苦い思い出のように、嫌な場所、嫌な人たちのことを早く吐き出してしまいたいのに、もうその人たちと会うことがないから絶対に言えない。そういう自分の中のトラウマみたいなものを、どうにかして処理したいと思って、こういうものをたまに書いてしまいます。
そもそも、わたしを突き動かす原動力って、「怒り」なんですよ。
世の中に対するぶつけようのない怒り。男女差別されて育ってきたことに対する怒り。固定観念で人と話すステレオタイプ人間に対する怒り。自分の思うようにならないことに対する怒り。自分の限界に対する怒り。
怒りだけでここまで生きてきたのかもしれません。だとしたら一体、わたしは何のために今の立場で今の仕事をしているというのでしょう? 怒りが収まったらすべて終わり? それは違うと思うのだけれど、やっぱり極限でわたしを守ってくれるのも「怒り」なんです。
自分の正義を守るためにわきおこる「怒り」ならば、受け入れて一緒に生きていくべきなのか、と今は思っています。昔の「カミナリ親父」と同じ気質なんですよね。仕事では疲れきるまでがんばって、家族の前では仏頂面。たまに不満をぶちまけるように怒鳴る。基本これと一緒。タチ悪い。
せめて人間として生きていけるよう、明日もうまく自分をコントロールして生きて生きたいと思います。もう若くないので、少しラクになったとです。
それじゃあ、また明日!
追記:普段はもうちょっとマシなことかいてます。