こんばんは。
人に感動を伝えることって難しいです。わたしはいつも感情が動いていますが、それを上手に言葉にできません。その場ではできるのですが、少し時間が経つともうその気持ちはどこかに行ってしまっていて、遠くに行った風船のように、ぼんやりその気持ちを見送るしかなくなってしまいます。
今朝書いた記事。
一番大事なことが抜けていました。
舞台のアフタートークで話を聞いて、一番印象に残ったのは「真実に少しのフィクションを混ぜることで芸術になる」という言葉でした。
実際に起こった事件を小説化したものはたくさんあります。殺人犯を取材していたり、事件を追っていたり、事実は小説より奇なりを地でいくような素晴らしい作品がたくさんあります。今日トップニュースに出ていた、死刑確定したあの女性のことも、これから誰かが小説にするのでしょうか。あの方は文章が得意ですから、自分でまた書くのでしょうか。
あの人を他人とは思えません。
わたしの成分から何かを引いたら、あの人になるような気がします。それはわたしだけではなく、みんなそう思うことかもしれません。あの人はたまたま成分が濃かっただけで、実はふつうの女なのではないかと思っています。
※この意見が普通ではないことはわかっています
さて、事実や真実に少しのフィクションを混ぜることで芸術に昇華する、という話。
これにはビリビリ来ました。
ああ、そうそう、そうなんだ……と頷きました。文章講座に出ていたときも、時折このうなずきが止まらなくなる現象がありましたが、久しぶりにそれを味わいました。舞台の脚本を書く人の言葉。とても重かったです。
文章も芝居も今の時代は生き方さえセンスが問われます。どこで洒落をきかせるのか。どこまで道化になりきるか。真剣に生きている姿にただ心打たれる時代は終わったのかもしれません。センスが良くないとだめなのです。
わたしはセンスが良くないかもしれません。最近人に認められることが少なくなって、自分で自分を認めるような行動ばかりしています。そんな自分が大嫌いであり、守らなければならないと思っています。
深く考えて書くことは、人生を大きく狂わせると思います。だって結局、人に面白がってもらいたいのだから。面白がってもらえる生き方を選ぶことは、後ろ指をさされながら笑われることと同義になりえます。どこで道を間違えたのでしょうか。
あなたの歩んでいるその道は、間違った道ではありませんか?