接客業は卒業したよ! あけすけビッチかんどー日記!

接客業歴15年のかんどーが綴る、あけすけな日記。人生はチキンレースです。一歩引いた方が負け。たまに小説を書きます。お問い合わせはsaori0118ai2あっとまーくやふーめーるまで。

片目のない人。世の中は暴力的に理不尽だ

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世の中は、暴力的に理不尽だ。その理不尽さは、人一人の力では到底抗えない力を持っている。「奴隷として生きなさい」と言われたらそのまま生きるしかない。無力さと諦めの境地に至った人の目は、なんの色も持たないビー玉のようだった。

 

 

★★★

 

 

日本にいるとき、わたしは大阪の西成で「暴力的な理不尽」に直面している人と出会った。もう本人にもどうしようもない域の問題になると、その心が目に表れてくる。その目の色は、何も写さない鈍色だ。

 

その時の記事。

www.kandosaori.com

 

 

フィリピンでもこの目をした人に出会った。

 

 

なんのことはない、普通のローカル食堂で普通に35ペソ(約70円)の定食を食べていたら、店に大人二人と子供三人がぞろぞろ入ってきたのだ。大人二人は大きめの空き缶をつなげて作った即席ドラムセットを腰に下げていた。陽気な音楽だったので、最初は明るい気持ちでその人達を見ていた。アジア圏では、食事をしている席に物売りが来たり物乞いが来るのはよくあることだ。わたしは普通に食事を続けながら「ああ、物乞いか」と思った。

 

 

その時食べていた定食。


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子ども三人はわたしのところへ寄ってきて手のひらをこちらに出す。「お金をくれ」というポーズだ。わたしは静かに首を横に振った。今お金をあげたって何も変わらない……そんなふうに思ったから。あとは「日本人はお金をくれる」という印象をつけても、後からここで食事をする日本人が困ると思ったから。子どもたちは別のお客のところへ行って、食べ物をもらっていた。

 

ふ……と視線をドラムセットを下げた大人に移すと、一人は普通の若者であった。健康そうな肉体と楽し気な演奏。しかしもう一人は、片目が完全に無かった。正確に言うと、真っ白な白目だけがそこにあった。わたしは恐怖で倒れそうになった。「あ……」という顔をしたまま固まってしまった。

 

しかし、目があった瞬間その片目のない人は、もう片方の充血した目を爛々とさせ、ドラムセットの演奏を強めた。歌う歌はセブ島で使われる「ビサヤ語」の歌であったが、本当に簡単な単語をつなげたものであり、ありがとう、ありがとう、あなたかわいいね、きれいね、という意味の歌だった。

 

口元はにこにこと笑っている。そして邪気の無い笑顔でこちらに近づいて音楽を奏で、お金をくれと言ってくるのだ。その目は爛々としていながら、何も映さない。片方の目は本当に何も映さなくて、もう片方の目は、景色を映しているのだろうけど、何も見ていないような不思議な色をしていた。お金を渡さないわたしに彼は「お釣りをくれ」と言ってきた。くれと言いながらも、欲しいという意欲はそこにはなくて、言わされているかのように「お釣りをくれ」とただ言葉を紡いだ。

 

「会計をしたあと、お釣りが出るだろう、それをくれ」

 

ゆっくりと紡がれる言葉に食欲が失せていく。力無く咀嚼するしか無かった。

 

 

わたしはそれまでの「今ここでわたしがお金をあげたら、この後日本人がここに来たときに困るだろう」とかそういう事を全部忘れた。ただ、その人の持つ「強すぎる気」に当てられてしまったのだ。

 

わたしはぎりぎりのところで、その人を怖いと思っていることを顔に出さずにいた。しかし背中に寒いものが走り、肩がグッと重くなった。嫌な言い方になってしまうが、これはわたしが「霊的に良くない場所」へ行ったときに感じる独特の感覚であり、生身の人間からもときどき感じることがある。これを感じると、しばらく体調が悪くなる。ひどいときはお祓いに行かないと自分が負けてしまう。完全に失せた食欲でわたしはその感覚に気づいた。「ああ、これダメなやつだ……」と。

 

 

薄れそうな意識の中でわたしは彼を何度か見てしまった。目を合わせてはいけないのに、目を合わせてしまう。愛想笑いはしなかったと思う。彼は世の中をどう思っているだろうか、ただそれだけが頭をよぎった。定食のお金を支払い、それのお釣りを彼に手渡した。彼が用意した「お釣りをくれ」という言葉に従うことしか出来なかった。わたしは無力で思考停止しているなと思った。

 

 

あの瞬間、わたしと彼は真横にいて、同じ時間を共有した。だけど、彼に見える世界はきっとわたしには永遠に見えないし、わたしと同じ世界を彼が見ることも無いだろう。この断絶はなんなのだろう。どうして人は平等ではないのだろう。世界は、国をあげて理不尽だ。

 

 

人は人を救えない。目の前にいるこの人一人を、その瞬間救えたとしても、たった一瞬のことだ。翌日になればまたお腹がすくだろうし、家族はお腹をすかせたままだ。そもそもどうして物乞いをしなければならないのだ。

 

 

さんざん語りつくされた言葉が脳内をぐるぐると駆け巡った。

 

 

この世の地獄をうつす鈍色の目に、今日もまた出会ってしまった。それだけのことだ。

 

 

たやすく考えつく答えでは人は救えない。考えに考えても、きっとほんの少ししか救えない。それならほんの少し救おう。自分が優しくありたいという思考停止で今日も一日が終わる。

 

 

誰も救えなかった。

 

 

それじゃあ、また明日。