接客業は卒業したよ! あけすけビッチかんどー日記!

接客業歴15年のかんどーが綴る、あけすけな日記。人生はチキンレースです。一歩引いた方が負け。たまに小説を書きます。お問い合わせはsaori0118ai2あっとまーくやふーめーるまで。

なぜ愛は憎しみに変わるのだろうか

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私を愛したことのある人は、私を憎んで去っていくことがある。私は相手をちっとも憎んでいないのに。

確固たる理由や私のあいまいな態度が良くなかったという理由はもちろんあるのだろうが、それ以外のものもある気がしている。それは、良い言い方をすると「愛が深い」ということ。厳しい言い方をすると「利己主義である」ということだ。

私は相手に捨てられても相手を憎まない。忘れようと努力するだけだ。そして私には忘れる能力が人より多く備わっている。だから思い出そうとしない限り思い出さないことができる。元カレと今カレを比較することなんてまずない。今の彼がいるのに前の彼のことなど思い出さないのだ。

そもそも私は人と付き合う際の基準が少し人と違う気がしている。本能的に過ぎるというか。結構一目ぼれするし、好きなところをたくさん探してすぐに夢中になるのである。あえて冷めた言い方をするが、私は「好きになった相手を肯定する能力」がきわめて高い。


そんな性格のせいもあり、私は別れ方がうまくない。何度か揉めているのを読者の方々も見ているだろう。今度こそはと思って今は純愛を貫こうと頑張っている。もうみんな理由なく応援して。私頑張ってっから。


さて、なぜ愛は憎しみに変わるのか。


それは「愛しすぎたから」であり「相手に期待しすぎたから」であり「自分を裏切った相手が憎くなった」のだろうと思う。

私は「愛しすぎた」ゆえに「相手に期待」はする。しかし相手がどこかに行ってしまったのは相手も意志ある人間であるからだと納得する。悲しみは永遠に続くと思われるが、実は続かないことも知っている。私は立ち直りが早いのである。

ふとしたことで別れた彼のことを思い出して泣くこともたまにある。しかし本当にたまにである。泣き続けたり、忘れられなかったりしたことは無い。愛が薄いと言われればそれまでだが、こういう性格なのである。


愛を憎しみに変えないためには、自分を精いっぱい愛することであると思う。


自分を信じ、自分の存在を肯定し、生命の未来をただ信じるのである。


愛が憎しみに変わることは知っている。いつでも変えられる。ふとした瞬間に変わってしまうこともある。けれど相手を心底憎むような恋愛はしたくないのである。

私は常に全力で自分を肯定しているので、別れたどの人のこともまったく憎くないのである。

 

 

すべての出会いに感謝の乾杯はするけど、別れにいちいち留まることはしない。別れにこそその人が表れると思う。

 

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写真は本文とは関係ありませんw   そして現在進行形の恋愛と本文とも一切関係がありませんw