接客業は卒業したよ! あけすけビッチかんどー日記!

接客業歴15年のかんどーが綴る、あけすけな日記。人生はチキンレースです。一歩引いた方が負け。たまに小説を書きます。お問い合わせはsaori0118ai2あっとまーくやふーめーるまで。

アイデンティティの無さに嘆く20代は生きるのが本当につらかった

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今の私のアイデンティティは、

・どこへ行っても困らないくらいには英語が話せる
・営業系(販売でも)の仕事なら何を任されてもやれる
・マネジメントの仕事なら何を任されてもやれる
・教育系の現場でも仕事ができる
・文章を書いてまとめる、ということができる

ということです。選ばなければそこそこ仕事はあります。

正直、20代の頃は自分がこういう40代になるとは思っていませんでした。そもそも目指しているところが違っていたし、なんというか20代の頃の私はかわいそうなくらい何も知らな過ぎました。


20代の頃の私は、マスコミの刷り込みと幼少期に周囲に言われたことを守る、というやり方しか知らない人間でした。

・好きなことを仕事にする
・人から言われたことはとりあえず聞いて、言われたとおりにする


こんな生き方で人生が楽しくなるわけがありませんでした。

まず、好きなことを仕事にしていいのは、その好きなことが「本当に」「継続して」「年をとっても」稼げる仕事である場合だけです。そうでないなら、ほかのスキルも身に着けておくべきです。これは防衛手段として、必ずそうするべきなのです。


吟遊詩人じゃあるまいし、好きな歌を歌っていたら誰かが施してくれるほど甘くはありません。まあ、本当にほかのことができないのなら、生活保護をとって吟遊詩人として生きるのは自由だと思います。ただし、はやりのyoutubeなどで稼いだらその分減額されますが……

そして「人から言われたことはとりあえず聞いて、言うとおりにする」というのは間違いです。誰しもが正しいことを言うとは限りません。言っていることが正しいかどうかを、否定はせずにまず脳内で精査し、本当に正しいことを言っていたら同意してそのようにすればいいし、誤ったことを言っている場合には、その人から離れるのが正解です。

明らかに遅くなる仕事のやり方を提言してくる人にも要注意です。もっと早くできる方法を知っているのなら、「ありがとうございます。ちなみにこういうやり方もありますが、どちらの方が良いでしょうか?」などと投げかけるのが日本的で良いと思います。


今思い出すと、20代の私はよく生き残ったな、というくらいに恵まれませんでした。

なにもかもが自分に合わなかったです。
20代の頃に得た知見で今生きているものがほぼ無いです。

自分でフロムエーで求人を読んで応募して、一人で飛びこみ営業をしていた日々の活動そのもの、それは役に立っていますが、特に誰からもやり方を教わっていません。一人でやりながら身に着けたものです。

断られたら「すみません、なぜ断ったか、理由だけでも教えてください!」と目の前のお客様に縋って、「会社名が怪しい」とか「服装が怪しい」とか「話し方がうさんくさい」とか、どんどん理由を聞きだしていきました。そのたびに服装を改めたり、話し方を変えてみたり、自分でトライ&エラーしてきたんです。

そうやって、飛び込み営業の仕事を自分で自分のものにしたのが20代です。

私には、「頼れる先輩」もいなければ、「仲の良い同僚」もいなかったです。いつも一人でした。一人でスンと澄ました顔で、いつのまにか出来るようになっていた営業の仕事を、最初から出来てました……という顔をして立っていること……それこそが20代の私が手に入れたアイデンティティでした。


お客から暴言を吐かれたり、玄関に指をはさんで痛かったり、押されて追い出されたりするのは日常茶飯事。そんなときのネガティブな感情を自分でコントロールすることも、自分でやっていました。いきつけのバーで愚痴ったりするようなこともしませんでした。そもそもいきつけの店なんて無かったです。


……いえ、ドトールだけは行ってました。あれは行きつけと言えるでしょう笑

店員さんとお話とかはしなかったですが、確かにドトールは私の心の中にいつもありました。当時は喫煙者でしたので(15年以上前のことです)、ドトールでたばこを吸って自分をなぐさめていました。ブレンドコーヒーの苦みとたばこのけむりが、ふわっと私を包んでくれていたのです。


しかし、それだけじゃ足りなかったのでしょうね。

その後すぐに私はアルコール依存症になってしまいました。


そこから復活するまでは20代のヤマ場だったと思います。本当に、死んでいてもおかしくなかった。駅のホームに立つたびに死を意識し、歩道橋を歩くたびに死にたいと思い、街をさまよっては生きる意味を探していました。


30代後半、営業力だけで乗り切って、ある程度の自由なお金を手にすることができて、やっと海外旅行をし始めたのが「生きる意味」そのものでした。タイの雑踏の中を歩き、蒸し暑い空気を感じてやっと、「ここでなら生きてもいいかも」みたいに思えました。

海外旅行のほとんどを一人でしました。海外のマラソン大会もツアーでなく個人参加で走りました。正直走るのはキツかったけれど、完走した後にもらえる記念品や副賞の「その国独自の食べ物など」の詰め合わせをもらえるのがうれしかったです。


私は写真を残していません。ここ最近のものが勝手にグーグルフォトに残っている以外は、すべて携帯を変えるたびに消えてしまっています。20代の自分がどんな顔だったのかもわかりません。子供の頃の写真なんて1枚もありません。興味もありません。


今は40代としてそこそこの位置で今の自分と向き合えていると思います。

あの殺伐とした20代を生き残って、30代で海外という選択肢に出会えて、40代になった今はもう老人会のような気持になることが多いです。そのくらい20代が、切ないほどにつらかったのです。


もう二度と自分の人生を生きなおしたりなんてしたくないです。こんなつらい人生は二度といやです。たまたま30歳になった頃に青年海外協力隊に参加できて、インドネシアに行けたこと、30代後半でタイに行くという選択肢が取れたこと、この偶然があったから生きているものの、そうでなかったら私は窒息していたと思います。

日本には私の吸う空気がないんです。

正直に申し上げると、もうフィリピンに帰りたいです。


紫外線も人の持つパワーも桁違いな、あの遠慮のない国に戻りたいのです。


こればっかりは、変えられないかな。
幸せな20代を過ごしていたら、また違う気持ちになったのかもしれないけれど、日本国内に思い出の場所とかがないんだから仕方ないです。

初めて自分の営業で光ファイバーのマンションタイプが設置された墨田区のマンションとか、そういう思い出の場所はたまに訪問して心癒されてますが、そういう思い出以外に、本当に思い出がないんです。


卒業旅行というものも1回も行ったことがないし、、、


寂しい人生でした。
でも今は「海外に行く」という小さな目標があるから生きています。それだけなんです。


ああ、言い忘れていました。
私、まだ生理があるんです。

今、生理まっただなかで、ちょっとネガティブ思考です。

だからこんな長文書くんでしょうね。
すさまじいネガティブパワーを炸裂させてしまい、失礼いたしました。

それじゃあ、またあした。。。