接客業は卒業したよ! あけすけビッチかんどー日記!

接客業歴15年のかんどーが綴る、あけすけな日記。人生はチキンレースです。一歩引いた方が負け。たまに小説を書きます。お問い合わせはsaori0118ai2あっとまーくやふーめーるまで。

【記憶の上書き】歌っていて楽しかった思い出

2018年の記事から、よいものをピックアップして再掲しています。
本日の記事は読了まで10分ほどかかります。
お時間のある時にお読みください。

 

__________________________

 

歌っていて楽しかった思い出
 

※今日の記事は長文です。お時間のあるときにお付き合いください。(目安読了時間:約10分)

 

 

わたしは14年前、確かに歌手だった。

 

それは絶対に変わらない事実で、わたしが20代のときに歌を必死で学んだことも、絶対に変わらない事実だ。わたしは一生懸命に歌の世界で生きていこうと足掻いた。

 

いろんなことがあって、結果的に歌をやめてビジネスの世界に入ったけど(それもドップリとw)、人前で歌を歌っていて楽しかった思い出がたくさんあることに、今やっと気づくことができた。

 

 

クラブシンガーのお仕事


わたしは24歳~25歳までの間、六本木にあるライブバーで歌っていた。毎晩数人のシンガーが出演する。わたしはそのうちの一人としてオーディションをくぐり抜け、約3か月の訓練期間を経てステージデビューした。一人だけステージに立ってソロで歌うこともあるけれど、基本、2人~3人がステージに立って、メインボーカルとコーラス、という構成だった。 音はオケを流して、ギターのみ生演奏。一応ダンスもあった。

 

わたしはメインで歌うに堪えるだけの歌唱力はない状態での採用だった。しかしわたしには強力な武器があった。コーラスだ。

 

わたしは曲を聴いてコーラスラインを拾う(あるいは付ける)のが早く、そして柔軟なコーラスをすることができた。柔軟なコーラスというのは、メインボーカルがフェイクを入れたらそこは自分は歌わないようにしたり、メインボーカルが歌詞すっぽ抜けてしまったときにさりげなく自分がメインの旋律に切り替えて歌が途切れないようにする、など。

 

コーラスメンバーはシンガー同士で話し合って決めていたのだが、わたしはよく使ってもらえた。(1日4ステージで、1ステージ10曲くらいやっていたけど、わたしがメインで歌うのは1ステージで1曲とかだった。でも、コーラスとしてステージの上に立っている時間は誰より長かった)

 

ビージーズメドレー、ビーチボーイズメドレー、アースの曲など、コーラスを取っていて楽しかった曲がたくさんあった。

 

わたしがそのクラブでメインボーカルとして歌っていたのは、ロネッツの「Be My Baby」と、バリー・マニロウの「コパカバーナ」、ビリー・ジョエルの「Honesty」「Stranger」、あとなぜかロッド・スチュアートの「Sailing」「I'm sexy」などだったw(たぶんリズムの取り方がオモテだったので、ウラで取らないと決まらない曲がもらえなかったのだと思う。今になってわかった)エルトン・ジョンやクラプトンも歌ったなあ。

 

自分がメインで歌っている間は、その曲が流行っていた時代の空気をそのまま持ってきたい! という願いだけを胸に抱いていた。自分がうまいとか下手はどうでもよくて、聴いている人の心がその時代にトリップして、楽しかったり切なかったりする思い出を引き出せたなら、それがわたしの幸せだった。

 

コーラスとして歌っているときは、全体のバランスの中で声を出したり引いたりすること、そして突然のアクシデント(メインボーカルがトイレ行っちゃって不在のままオケが流れたとかw)に対応できるように全部の曲の歌詞を頭に叩き込んでおくことに専念していた。実際にそれが役立ったことは2回くらいあったが、その2回は、はからずもいつもコーラスを取っている曲をメインで歌えたので、貴重な経験だった。

 

土壇場に強い人でありたいという願いで、わたしはそういうスタンスを取り続けていた。

 

そのクラブは音楽好きのお客さんが多かった。たくさんファンのいるシンガーもいた。わたしは個性派だったけれど、それでも応援してくれるお客さんはいて、それはとても強い励みになった。

 

お店の常連さんから、海外アーティストのライブに連れて行っていただいたこともあった。ケントス(オールディーズの生演奏を毎日やっているライブハウス)に連れて行ってもらったり、大変なこともあったけれど、カラフルな毎日だった。

 

一番嬉しかったのは、かなりの良席でフィリップ・ベイリー(Earth Wind & Fireのボーカル)のライブを観ることができたこと。そこでのクラブシンガーの仕事は、ギャラが未払いになり、やがてクラブがつぶれてしまったことで終わってしまったけれど、良い経験になったと思っている。

 


 
ボイトレの先生との出会い


上記で書いたように、わたしはクラブシンガーになることができた。それは、あるボイトレの先生のおかげだった。

 

当時、千葉の柏に住んでいたわたしは、近所でボイトレをやっている先生のところへ行き、習い始めた。最初はド素人の状態。洋楽? 何それ? 状態。ビートルズくらいは知っていたけど。もう22歳を過ぎていた。音楽経験は、素人バンドを転々と2年くらいやっていただけ。

 

「英語の歌とか、歌ってみたいんですけど……」

 

こんな会話からレッスンがスタートした。先生(W先生とする、男性の先生で、当時40代半ばだった)が用意してくれた「英語の歌」は、スティービーワンダーやロバータ・フラックといったものだった。英語の発音を覚えながら、どうやって英語の歌を歌うのか覚えながら、とにかく手探りで歌った。

 

W先生は、グルーヴィーで独特のリズム感で歌う人だ。ジャズもフュージョンもブルースもロックもなんでもござれ。音域もめちゃくちゃに広くて、小柄なのに体全体からソウルフルに歌う。W先生の歌にわたしは魅了された。(こんな歌い方があるのか……と放心した)

 

W先生のレッスンはある種の熱を持っていて、そこで歌っていると、自分がどんどん歌の世界に没頭していくのがはっきりとわかった。発声練習もめちゃくちゃきつい。スタッカートで息をたくさん使う音階をしているときは、何度も倒れそうになった。

 

W先生は、わたしが本気でやっていることをわかってくれ、音感が良いことを発見してくれた。そして、わたしを「表の世界で歌える人」にしてくれようと、かなり本気でレッスンをしてくれた。1年後にはW先生主催の発表会ライブに出て歌ったり、地元の音楽好きな人との人間関係も広げて、つなげてくれた。友達もできた。

 

さらに半年ほどレッスンを続けていると、声が脳天、胸、からだ全体から突き抜けるようになっていった。わたしはW先生のレッスンで習ったことを、レッスンが無い日もほとんど毎日していたので、1年半で「使える声」が出せるようになった。からだで歌う、という感覚を掴んだのがこの時。歌える洋楽レパートリーもかなり増え、寝る時間以外ずっとCDばかり聴いていた。偏ってはいるけれど、いろんな曲に触れることができて幸せだった。ジャズもポップスもUKロックも好きだったけど、歌うのはオールディーズに絞った。

 

そして、その頃からわたしは「テレビに出る歌手」ではなく、「クラブシンガー」すなわち、毎日お客さんの前で歌う歌手を目指すようになった。理由は、そっちの方がずっとやれるから。歳を取っても、ずっと続けたかったから。あとは歌いたい曲がたくさんあったから。

 

クラブシンガーのオーディションをいくつも受けた。そのたびにW先生は特訓のように歌をきっちり見てくれて、レッスンの時間をオーバーしていても、みっちりとレッスンしてくれた。

 

そしてオーディションに受かって、クラブシンガーになれたとき、W先生はすごく喜んでくれた。「やったな! プロじゃん!」と言ってくれたのは、今でも忘れられない。

 

 

クラブシンガーを始めた頃、W先生はわたしを地元のバンドにも紹介してくれた。大所帯の完全生バンドで、コーラスとしての参加だったが、演奏レベルが非常に高かったので、ついていくのが大変だった。コーラスで入っていたもう一人の方の歌唱力がめちゃくちゃに高く、負けず嫌いを発動して練習に拍車がかかった。(そのバンドはもともと期間限定であったため、やがて活動は自然に終わった)

 

クラブシンガーを続けながらも、生バンドで歌うことの楽しさに目覚めたわたしは、人づてで、やはり大所帯の生バンドにコーラスで入った。東京で活動しているバンドだった。そこは地元のバンドよりさらにレベルが高く、週に二回ほど、バーやライブハウスのレギュラーをつとめていた。やっぱり、技術的についていくのがとても大変だったw 

 

それでも、メンバーと毎週会ってスタジオ、リハーサル、本番と重ねていくうちに、わたしがメインで歌う歌も2曲もらえた。「ロコモーション」と「I'm in the mood for Dancing」だった。(あんな高音よく歌ったな自分、一番高い音Eだぞ……)

 

www.youtube.com

 

当時わたしのキャラは、茶髪でチャラい感じだった。(写真全部捨てたので偶然本に挟まっていたこれくらいしか無い)

 

 



 

それで、イメージ的にこの2曲だったのだと思う。

 

深みがないというか、盛り上げ担当みたいな感じだった。わたしは歌を本当に「大事な仕事」だと思っていて、ステージ上での体調・メンタルの安定度はハンパなかった。しかし、歌に感情を込める、とかがとにかく下手だった。音程! リズム! 他の人の声よく聴く! みたいな「歌うマシン」になろうとしていたフシがある。

 

メインボーカルの女性は、歌に深みがあって、ボイストレーナーもしていて妖艶な方だった。情感たっぷりに歌う彼女の歌は魅力的だった。彼女のレパートリーはめちゃくちゃに多くて、いろんな曲をやっていた。有名どころの60年代~80年代洋楽がほとんどだった。うまい人のコーラスって大変。曲数も多いし、もう、めちゃくちゃ大変。そのバンドでは、コーラスはわたし一人だったので、「まだ覚えてません」は通用しなかった。(前のコーラスの人が辞めたから入ったんだけど、キツかったんだろうと思うw)

 

その間もずっとW先生のレッスンを受けていた。

 

悩み、迷い、バンド内でうまくいかない時も、W先生に話すことでほとんどの悩みを乗り越えることができていた。W先生主催で小さなライブハウスで、ゲストシンガーとして歌ったり、W先生のライブに、スタッフのような形でついていったりしていた。毎日が音楽漬けだった。

 

W先生はどんな体調の時でも、絶対に歌うことをあきらめない人だった。

 

高熱で声が「ヒィ」みたいにしか出ないときでさえ、予定していたライブハウスに行き、ピアノの前に座って歌った。ピアノのアドリブと、なんとか出る中音域の歌で曲のグルーヴを出し、鬼気迫る迫力で一曲一曲、やりきっていった。ライブハウスは異様な熱気に満ち、観客は取り憑かれたようにステージをみていた。わたしも魂を抜かれたようになっていた。ある曲で、まったく出ていない高音が、W先生の体から発せられる見えない力で、空から降って来たような感覚になり、曲はうねるようにグルーヴを描き続けていた。

 

 

奇跡を見たような気持ちになった。

 

 

その日のW先生は、いつもと同じだけの曲数をやりきった。わたしが音楽=生の音と声を目の前の人に届けたいと強く思うのは、このときの体験があるからだと思う。やっぱりね、目の前の人の心が歌に向いてくれるその一瞬が嬉しくて、いとおしいんだ。そして、わたしも音楽の神様に愛されて、いつの日か奇跡を起こしたいと思っている。

 

 

そんな体験もあったけれど、わたしはライブバーのギャラ未払い事件や某事務所との揉め事、重なり続けるアンラッキーに耐えるだけの精神を持っていなかった。そして、勝手に精神を病んで勝手に音楽を憎み、W先生のレッスンもフェードアウトするようにやめてしまった。

 

 

 

そして、12年の時が流れた。

 

 

 

W先生との再会


さて、そんなW先生。最近音楽を再開したので調べてみると、なんとまだバリバリの現役! ストリートやライブハウス、地元のお祭りなどでガッツリ歌っていた。

 

 

12年間ずっと、歌い続けていた。

 

 

ボイストレーニングも続けていた。場所も変わらず、歌を楽しみたい層からプロ志向まで幅広く教えているのも変わっていなかった。

 

わたしは、自分が音楽の世界へ戻る儀式として、そして元の声を取り戻すために、W先生とコンタクトを取り、ボイストレーニングを受けることにした。

 

感動の再会……になるかなと思ったのですが、お互い表層的には「チャラい」感じなので、そのあたりは「ノリの良い」再会という感じになったw

 

W先生はわたしの今の状況を感知するのが早かった。わたしの見た目、話す声からすべてを察してくれた。(ギターの弾き語りを習いたいということだけは前もってメールで伝えておいた)

 

再会から30秒で先生はレッスン体勢に入った。W先生のレッスンは1秒も無駄がない。これは出会った頃から変わらない。「歌を強くしたい」という芯がブレない。

 

レッスン開始から発声練習までのW先生の言葉は、わたしを12年前に引き戻した。 

 

 

「これからは弾き語りをやっていくんだね?」

「よし、じゃあギターを準備して。俺もギター持ってきてるから」

「(ピアノを鳴らし)準備しながらでいいから、ハミングからいこう、出しやすいところから行くよ(中音域の和音を鳴らす、発声練習開始)」

 

「(ギター)準備できたね、そしたらしっかり立って、高音出していくよ」

「C♯、ここが地声との切り替わりだな。覚えておいて、ここ重要な音だから」

「裏声に切り替えよう。うん、出るね。F♯、安定しなくなるから覚えておいて」

「戻るよ、C♯、鼻に当たってるのを感じられる?」

「もう一回上がるよ、F♯、眉間から抜けてるのを感じられる?」

 

 

あっという間に声出しの特訓状態になっていた。その後ももっと高音まで出し切ったり、絶対出ないであろう低音もW先生のアドバイスで「もしかしたら出るかも」というところまで行けた。手元のメモには自分の音域と苦手な音、練習すべき音階が刻まれた。明日からこれを毎日すれば良いと思ったら、ぐっとお腹に力が入った。

 

その後、W先生もわたしもギターを持った状態で、弾き語りのノウハウを教えてもらった。ギターを誰かに習うのは初めてだ。W先生はわたしの知らない弾き方のパターンを教えてくれた。

 

わたしは弾き語りでは、ギターはコードを弾いておけば大丈夫と思っていたけど、そうじゃない。音楽をやるのだったら、ギターもより知っておくと美しい和音が鳴る。W先生の弾くギターは、W先生の歌を面白く、楽しく、深くするものだった。わたしもわたしの歌を彩ってくれるギターを弾こう、と思えた。

 

知らなかった音の重なりに身を任せ、ただただ6本の弦の音に耳を澄ませて、少し慣れたら歌を乗せていく。慣れ親しんだ歌、12年前はボーカル一本でレッスンを受けてきたけれど、今はギターを鳴らしながらの歌に変わっている。人は変われる。そんなことをぼんやり思いながら、集中の糸を切らさないようにした。

 

たった1時間だったが、声も抜けるようになったし、弾き語りでわたしがやりたいスタイルをあぶり出してくれたレッスンだった。

 

W先生の弾き方を100%真似はしないけれど、取り入れたいエッセンスがあった。手元のメモには歌とギターのノウハウがいっぱい書かれていた。先生は「またライブとか観にきてよ」と軽く言ってくれた。日本にいる間に先生の歌を聴く機会を作りたい。

 

この日は、W先生が今でも元気で歌っていることに勇気づけられた。(合間合間で近況や共通の知人の話をしたのだけど、W先生もいろいろあったみたいだ。ここは省略する)

 

 

たくさんのありがとう

 

わたしを音楽の世界にもう一度戻してくれたのは、「ギター弾きたいなあ」と言ったときにすぐ「使ってないギターがあるから、あげるよ」と言ってくれた方。そしてそのすぐ後に、もう一人わたしにギターをくれた方。このお二人がいなかったら、わたしはギターを毎日弾くことができなかった。本当にありがとう。

 

このお二人は、それぞれわたしの歌う場所まで作ってくれた。一人は音楽好きが集まるスナックみたいなお店で、人前で歌うということを、2月に経験させてくれた。もう一人は、ギターが置いてあるカフェでアコギを借りて、交代でギターを弾いたり歌ったりして遊んでくれた。ほかのお客さんもいるので、若干だが見られる。そういうゆるい「人前」にどんどん連れ出してくれた。

 

 

最後に、W先生。

 

 

勝手にやめていったわたしに、12年間の空白なんて無かったかのように、一週間前に来た生徒に接するようにレッスンしてくれて、ありがとうございました。

 

先生がわたしをプロにしてくれた。これからは、わたしの歌う場所を自分で見つけて、もう一回プロとして歌っていく。 いつか、どこかの国で。日本の街角で。先生とばったり会って一緒に歌うことができたら嬉しいな。

 

肩の力を抜いて、いろんな人と関わっていきたい。

 

 

わたしは、音楽が大好きだ。

 

音楽が好きな人が大好きだ。

 

 

もう、ひねくれた自分には絶対に戻らない。約束する。だから今繋がっている人たちと、これからもずっとずっと繋がっていたい。

 

これはわたしの願いだ。

 

セブへ行ったら、BGMみたいに流れる音楽としてのクラブシンガーをまず目指す。

 

それまでに、洋楽カバーを最低20曲。見ながらなら歌えるカバーを30曲。50曲持った状態でいかなきゃと思ってる。それとは別で、自分のオリジナルソングも作っていく。

 

 

仕事以外でこれやるの大変じゃない!? と思われるかもしれないが、そんなことは無いのである。ギターと歌を毎日するのはもはや習慣だ。

 

曲作りに関しては、まだ素人だが、メロディは突然降ってくるので、スマホに録音しておいて、まとまった時間が取れたときに曲の構成に仕上げていく。移動中にちょっと詞を考えたりすることができる。意外とコマ切れでできることはある。(ブログの更新と同じで、仕事中にネタを思いついてメモする、とかそんな感じである)

 

 

今、歌もギターも洋楽カバーもオリジナルも、全部楽しい!

 

 

わたしは音楽の神様を信じているのだけれど、真摯に音楽をするから、わたしの命尽きるまで、どうか見守っていてほしい。ビジネスの神様にもお願いしているので、欲張りだってわかってるけど。でも、12年我慢したから、どうかあともう一度だけ、ステージの上に立ち続ける生活をさせてほしい。

 

わたしは、ステージに立ちたい。

 

ごまかしのない完成度を用意しておいて、その上でステージ上で柔軟な動きができるクラブシンガーになりたい。楽しくやりたいのだ。

 

 

もう、めちゃくちゃ大風呂敷広げるけど、わたしの最終目的は「ボーカリストが歌いやすいように弾けるギタリスト」だ。コーラスも取りつつ、たまには自分で歌いつつしながら、ギターをきれいに鳴らせる人間になりたい。

 

 

そこに到達するまでの間は、自分で弾いて自分で歌う人であろうと思う。ぶっちゃけ、わたしが音感を取り戻せたのはギターを持つようになったからだ。今、すべての音が味方してくれているような不思議な感覚がある。歌一本でもやる機会があればやる。でも基本はギターを持ちながら歌うつもりだ。音が気持ちいいから。

 

 

 

長文におつきあいいただき、ありがとうございました! 今日は8千文字書いているので、最後まで読めた方はかなり少ないと思いますがw どうしても書いておきたかったので書きました!

 

 

ありがとう! それじゃあ、また明日! 

翌日着る服で寝ている話

のび太でさえ、寝る前に翌日着る服を枕元に用意して寝ているのに。

 

私ときたら。

 

実は、翌日着る服で寝ていることがあります。

 


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毎日ではありません。寝巻きに着替える日もあります。しかし、翌朝早く起きて出勤する日や、ドトールのオープン時間に行きたい日などは、早起きが必要です。

 

なので、そういう時は翌日着る服で寝ています。

 

朝起きたら、メイクをして髪をきれいにして、日焼け止めをしっかり塗って家を出ます。

 

着替える手間がないだけで、随分時間が短縮されます。服を選ぶ時間、着替える時間が短縮できます。

 

さらに、着替える時にメイクが服に付いてしまって着替え直すこともないです。

 

なので、私は翌日着る服で寝ることはやめられないと思います。スーツとかでない限り、この作戦は使えると思っています。

 

スーツの場合は、中に着るシャツと下着をキチッと付けた状態で寝て、朝起きたらジャケットとパンツを着るだけの状態にしておくのはやります。

 

……だらしないですよね。。

 

私、大人になってできるようになったことが多い方なんですが(勉強なども大人になってから伸びた)、大人になっても出来るようにならないことがいくつもあります。

 

そんな自分とうまく付き合いながらやっていこうと思います!

 

ズボラな方はお試しあれ!

 

慣れればいけます!   下着はユニクロのブラトップなど、締め付けやワイヤーの無いものにすると寝やすいと思います!!

 

それじゃあ、また明日!!

 

 

久しぶりにギターを弾いた

ほんとうに久しぶりだ。

地方に引っ越してきてからは一度も弾いていないから、少なくとも1年3か月ぶりくらいだ。弾けないかと思っていたら、自転車の乗り方と同じで、すぐにコードを押さえられたので、「ある程度まで習熟しておく」というのは大事だなと思った。


すぐに引けたのが「ゆず」の「夏色」だった!!

これはギターがそんなに難しくないコード進行なのと、右手をジャカジャカ動かすのがポイントとなるので、最初の一曲として最高にやりやすかった!

「右手動かねー」とか言いつつも一曲弾ききれた。


続いて、「たま」の「星を食べる」。難易度の高いコードがひとつあるけれど、それも指が覚えていてくれた。こういう「体で覚える系」の作業は私、得意らしい。

楽しく3曲弾いて歌って今日は終了。

またいつかどこかで、ギターと歌をやれたら楽しいだろうな。


そんな日が来ることを願って、それじゃあ、また明日!

 

わたしの居場所、ドトール!

先日、ドトールに関する記事を書きました。

この座席配置ならどの席に座りたいか?   という内容の記事です。

  

私はドトールに「作業効率アップ」という効果を求めています。それで、わざわざ遠出したり、旅行の時ですら、その土地のドトールに入って作業をするようにしています。

 

それによって「自分に合った座席選び」の審美眼を磨いています!

 

ドトールにいる時の私の机の上。


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こんな感じでやっています。

 

最近は、無理くり席取りをするのが面倒なので、オープンと同時に入店して好きな座席を確保するようにしています。

 

少し広めの座席や、奥まった座席はにんきなので、早めに行って押さえておかないと座れないからです。

 

そして。

 

ドトールでは、2時間いたら必ずもう一杯ドリンクを頼むようにしています!

 

長居する場合にも、ドトールにしっかり貢献したいからです!

 

そんな感じのドトールライフです!

 

それじゃあ、また明日!

私の履歴書は嘘だらけだけど、その嘘は「社会的な嘘」だから許してほしい話

こんにちは、私です。
来年の春から活動して、海外就職します。

そのために履歴書を用意しなくてはならないのですが。

履歴書って、私本当のこと書けないんですよね。


だって、20代でSMクラブで働いてましたとか、アロマエステのお店で「射精まで担当しておりました」とか書けないじゃないですか。

どう頑張っても、書けないじゃないですか。


読んだ人硬直するじゃないですか。
その後に続く質問がぎこちなくなるじゃないですか。


だから私は、スポーツインストラクターをしていた時期を1年長く書くのです。
パン工場で働いていた時期を、1年長く書くのです。


先方は今の私の能力やどの業務を遂行できるかが知りたいのであって、私の20年前の歴史を知りたいわけではないと思います。

親しくなってからなら、そういう過去のことを話しても理解してくれると思うけど、わざわざ初対面の人にそんなカウンターパンチくらわすみたいな履歴書たたきつけなくていいと思うんですよね。


それより絶対あるであろう、英語面接に備えたいです。

ビジネス英会話はスモールトークまではなんとかいけます。取引先との会話的なものは、専門用語がまだまだ甘いです。相手方が難しい言い回しを使ってきたらさおりたんアウトなので、もう少しがんばらないと。

頑張ります!


それじゃあ、また明日!

こういう配置のドトールでどの席に座りますか?

こんにちは、私です。
今日はドトールにおける「席の序列」というか、私なりの席の選び方を語ります。


まず、私はこの写真にあるような座席配置の場合、右の一番手前の席を取ります。
……この写真の中で、自分ならどこに座るかを考えてみてくださいね!

 


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なかなか良い席の配置ですよね。私はぐるっと円を描くようなこの丸テーブルみんな好きです。この店舗は丸テーブルの座席の下にコンセントが各席にあるという神ドトールでした。これは最高ですね。

そして壁を向いてコンセントが目の前にある席。こちらもいいですね。
完全に一人の世界に入りたいときなどは、他人が視界に入らない方が集中できますから、この席を選ぶこともあると思います。


ただ、私の場合壁を向いた席は選べません。

理由は、私がエロライターをやっており、ドトールではほぼ確実に「エロ記事」を書くからです。。エロい同人誌だったり、エロAVのパッケージであったりを見るのは日常茶飯事。つまり、後ろから覗かれたら困るんです!!


なので、私が選ぶ席は、円を描いている席の一番手前!
この席を選びます!!


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荷物置き場になる横の座席部分が使いやすいし、端だから少しパソコンを傾ければ横の人からパソコンを覗かれません。そして後ろが壁なのでパソコン画面を覗かれる心配が皆無となります!!

私が選ぶ席はこんな感じです。


また、別の店舗ですがこういうボックス席を用意してくれているドトールもあります。こういう場合はこの席が空いていたら確実に押さえます。
※このドトールに限り、開店と同時に行ってこの席を確実に押さえます。


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素晴らしい席ですよね。。
ため息が出るレベルで好きな席。。。


ここ近所じゃないのでなかなか行けないですが。この神ドトールのためだけに高速バス乗ってホテル泊まってもいいと思えるくらい好きなドトールです。


この席あったら座りたくないですか? ボックス席ですよ!? 4人掛けのゆったりテーブルに、壁にはコンセント2つ!! 神か!!


さてさて、お次のドトール行きましょう。
開店と同時に行ってきたこのドトール

どうでしょう? どの席に座りたいですか?




私はこのレイアウトの場合、一番手前、つまり「後ろに人が座らない」席に座ります。ここの店舗のレイアウト上、一番手前の席に座らない限り、確実にパソコンの画面は覗かれてしまうからです。


もちろんこのレイアウトにも良さはあります。

壁を向いて座る席と、向かって右側の縦並び席との距離が遠いので、壁を向いて座って作業をしていても、パソコン画面の細部までは見えません。

ですので、たとえばメールを打つ、などの作業であれば、少々の機密事項を打っていても周りから読まれる心配はないと言えます。


ただ、私の場合はエロいマンガやAVの画像を記事にペタペタ貼ったりするので、壁側の席は無理ですね。。。

結局このドトールの場合も、開店と同時に行って一番後ろの席を押さえて座る、あるいは適当な時間に行って適当に座りますが、一番後ろの席が空いたら移動する、という形での利用になりました。


最後になりますが……


 

このレイアウトのドトールだった場合。



私が絶対に選ばない席があります。それが、真ん中の2つの丸テーブル席です。

この席だと、円形になっている丸テーブルの席の人が座ったとき、ちょうど視線が自分に向いてしまいますよね……? 私は人から見られながら飲食するのがあまり好きではないので、この「真ん中の島席」※島席、というのは個人的な呼び方です だけは選ばないです。


せめて壁向かせて! と思います。
壁を向ければyoutubeくらいは観られますし。。。


「島席」気にならずに座れる人ってどのくらいいるんでしょう? 私は厳しいですね。。


今日はドトールの席配置について語ってみました!
それじゃあ、また明日!!

【長文であり熱文】青年海外協力隊で日本の格差と向き合い、恋をした話

2018年の記事をピックアップして再掲載しています!


今日の更新は、私の人生の一部を切り取った長文です。ゆっくりと読んでいただけたら嬉しいです。


_________________________

 

 

 

こんにちは、今日はわたしのリアル過去からひとつ、かなり恥ずかしい過去を暴露します。わたしからのプレゼントだと思ってください。

 

リア充どもは今日は外で遊んでるだろうから、クリぼっち共が読むことになると思います。大丈夫です、わたしのみじめな過去の話です。クリスマスの魔法がとけたらこの記事もまろやかに書き換えるでしょう。一晩だけの魔法だと思って読んでください。(当事者に読まれたらわたしたぶん死ねます)


当事者の人は万一読んだとしても読まなかったことにしてくださいね。

 

 

青年海外協力隊で恋をした話

 

単刀直入に書こう。

 

わたしは2008年に青年海外協力隊の短期隊員としてインドネシアに向かった。当時そのチームのメンバーは13人だった。3人はガチの長期隊員で、10人が短期隊員であった。当時わたしはやっと水商売、風俗、ヌードモデルを卒業し、音楽の世界に泥団子を投げつけてやけっぱちになっていた。光ファイバーの飛び込み営業の仕事で毎月100万くらい稼げたこともあり、手元にそれなりの現金があった。

 

しかしわたしにはわかっていた。この現金は「光バブル」によるただの現金であり、わたしという人間は何一つ変わっていないということを。光バブルが終わればまた、コンビニバイトで生活をつなぐか、風俗に戻るしかない。わたしを襲う閉塞感は何をしても拭い去ることはできなかった。

 

そんなわたしに「青年海外協力隊」という言葉を教えてくれた人がいた。なんでも現地での生活費が支給されるボランティアらしい。(もうちょっと言うと、現地生活費とは別で、日本で借りている部屋などをキープするための日本円も支給される)

 

わたしはそんなものがこの世にあることを知らなかった。海外なんて興味もなかったが、つなぎたてのインターネットで青年海外協力隊の事を調べるうちに、わたしは「これ、わたしが行くしかないじゃん」と思った。

 

わたしは思い込みが激しく、一度決断したことはその場で実現に向けて動き始める性質がある。ADHDの多動の一種だと思われるが、過集中したときのわたしのアウトプット、インプットの量はなかなかのものである。

 

この時もわたしは数少ない知人を頼りに「過去に青年海外協力隊をやっていた人」を探り当て、その人のアポを取り、

 

・どうやったら面接に受かるか
・何をアピールしたらよいか
・英語ができないのだがどうしたらよいか

 

を聞いてきた。その人は実に単純明快に答えてくれた。

 

・一番重視されるのは「人柄」と「健康診断の結果」!   健康診断書は完璧にしろ!   痩せすぎも太り過ぎもだめ!
・お前は教員免許持ってるんだから、それをアピールしろ!
学童保育のアルバイト、スイミングコーチのアルバイト経験をアピールしろ!   他の仕事は言わなくていい!
英語圏以外を狙え、英語が通じない国なら英語力は重視されない!

 

そして、グループディスカッションで万一英語での討論になったとき、一言も口を利かないのはマイナスポイントになる、とも教えてくれた。なので「とにかく議論の口火を切れ」とのことだった。彼が教えてくれたのは「この議題について議長をきめましょう。誰が議長をやりますか?」と言う意味の英語と「彼の意見に賛成ですね」という意味の英語だった。

 

議会を取り仕切る意思を見せて良い印象を勝ち取ること。そして、周りが何喋ってるかわからなくても、誰かの意見に対して「I agree with him」と頷きながらとりあえず言え! とのことだった。あと、英語は将来的に役に立つから、ほんの少しでいいから勉強しとけと言われたので、あわてて単語帳だけ買ってきて勉強した。そのおかげで文法はさておき、単語が聞き取れるようになった。

 

わたしは見事に青年海外協力隊に受かった。(健康状態が最高だったのは毎日10キロのジョギングをしていたからである。161センチ、51キロ、体脂肪率21パーセントのパーフェクト健康体の30歳であった! グループディスカッションも上記の方法を使って乗り切ったのだ!)

 


それまで出会ったことのない人種しかいなかった

いざ合格して、諸々の手続きを経ていよいよ出発の日。成田空港で一緒にチームを組む男女9人と合流した。わたしを含めて10人だ。女性が6人、男性は4人だった。

 

男女混ざりあって全員で自己紹介をした。

 

わたしは驚愕した。

 

A女「〇〇大学に在学中です」※超名門校在学中女子
B女「薬剤師をしています。今回は二度目の参加です」※5か国語ペラペラ女子
C女「高校で教師をしています。ボランティア休暇を取って来ました」※英語教師
D女「某国でのワーキングホリデーが終わったので参加しました!」※英語ペラペラ
E女「某有名企業で働いていますがこれから大学に行き、看護師になろうと思います」※意志強い

A男「公務員で専門職をしています。ボランティア休暇を取って来ました」
B男「〇〇大学の学生です、将来は教師になります」※超名門大学在学中男子
C男「〇〇大学を出て今は教師です。ボランティア休暇を取って来ました」
D男「大学生です、来年から〇〇省に就職が決まっています」※日本で一番いい大学

 

わたしは「ワーキングホリデー」の意味がわからなかった。仕事をしながら休日ってどういう意味だよ!! と脳内が混乱した。しかし誰もそれを質問しないところを見ると、普通にみんな知っていることなのだろう。後でネットで調べようと思ってこっそりメモを取った。

 

……こんなメンツの中で、わたしができる自己紹介はなかった。

 

とっさに口をついて出たのは、小学校教諭の免許を持っていることアピール。

 

「スイミングスクールのコーチと、学童保育のアルバイトをしています。小学校教諭を目指していたのですが、勉強より運動を教える方が性に合っていました! 体力仕事はまかせてください!」

 

わたしの自己紹介はちゃんと周りになじんだ。「パン工場の仕事に飽きたので風俗に転職しました。小学校教諭の免許は誰でも入れる短大の夜学で取りました。でも教員やったことはありません。今回はヒマだったので来てみました」なんて口が裂けても言えるものか。

 

わたしはこの集団に完全にひるんだ。エリートってこういうことを言うのか……! みんな両親とかと今でも仲いいんだろうな……水商売とかしたことないんだろうな……と卑屈になっていた。

 

しかしわたしは持ち前の演技力で「体力仕事は任せて!」キャラを演じきった。どこへ行くにも好奇心旺盛、積極的、力仕事は男子と一緒にやる。女子たちとも明るい笑顔で接する。

 

そして周りのみんなは海外に行った経験がたくさんあったが、わたしはほとんどなかった。パスポートもこのために取ったぐらいだった。でも乗り切った。積極性だけはあったので、地元の料理を好奇心で食べてみたり、とにかく全力で楽しんだ。

 

 

そんな中で、わたしの心の中にどす黒い恋心が芽生えたのである。
しかも、その場にいる男子全員にだ。

 

なんだこのエリート連中。この中の一人でもわたしの結婚相手になってくれねえかな……そしたらわたしの人生変わるじゃないか! 特に〇〇省に内定決まってるこの男……最高じゃないか。

 

教師も公務員もいいじゃないか……定年したあともがっぽりお金が入ってくるそうじゃないか……わたしのようなどこの馬の骨かわからない女が起死回生するには、こういう男と結婚するのがいいんじゃないだろうか……

 

わたしのどす黒い恋心は、まったくわたしをセクシーにしなかった。ただギロギロと男を観察するだけだった。そしてこの男たちは性愛を日本に置いてきたようで、まったくもってアピールしている感が無い。風俗で培ったわたしのアピールを持ってしても、彼らがなびくことはなかった。

 

むしろ、名門大学に通っている女子の素朴な疑問に真摯に答えたり、ほんとうに「知識の交換」をしている感じがした。彼らが真剣に何かを話すとき、わたしは口をはさむこともできなかった。わたしの出る幕は「決断すること」だけだった。

 

いくつか案が出たとき、議論が停滞することがある。そのときわたしが「聞いた感じ、〇〇の案が楽しそうですね!」と明るく言うのである。彼らはわたしを特異な人間だと思いつつも、ある意味で認めてくれていたので、そういうときは「じゃあそうしよう!」とみんなの腰が上がるのであった。

 

わたしはこの滞在で、圧倒的な敗北感を味わった。

 

わたしはできることなら、こういう人たちと学生時代に友達になって、こういう人たちと話が通じるような自分になっていたかった。こういう場に、演技をしなくてもなじめる自分でありたかった。

 

しかし同時に、彼らの議論における「決断の遅さ」に気づいた。今決めても明日に持ち越しても出る結論は同じだとわたしは思っていたから、そういう場合今日決めて明日は作業に取り掛かるのが良い。そう思っていた。そして期間の決まっている青年海外協力隊の活動において、このスピード感は大切であった。

 

誰の意見も否定せず、平等に、かつ最適解を「決断」する。

 

わたしはこれだけは自分に備わった能力なのだと思った。時には突飛な案を自分で発案することもあった。しかしそういう場合、面倒な準備ごとは買って出た。そうすると人は「そこまでやってくれるならその案でいいか!」となるのである。

 

わたしは卑屈になりそうな自分を必死で抑えながら、自分のいいところを前に出していった。そうしてインドネシアという異国の地で過ごしているうちに、だんだん彼らと「横に立って」話せるようになっていった。

 

〇〇省に決まってるとか、〇〇大学とか関係ない。今回のミッションは現地の子どもたちを笑顔にする、というザックリしたことだ。おそらくこれを成し遂げるためには、何かイベントを企画して、そこに向かって全員がまとまることが大事なのだ。私の脳内では今回のミッションの成功絵図がほぼ描けていた。そこに向かうだけでいい。私は調整役をやればうまくいく。花形はやらなくていいんだ。成功へ、導く係をするんだ。

 

そう思ってどんな仕事も積極的にやっているうちに、わたしは本当の恋をしてしまった。

 

誰に恋をしたかは言わない。だってその人たちが今もこれを読んでいるかもしれないから。ただ、ほんの少しの共通の話題があった。ほんの少しの共感があった。育ちの良さそうな彼の中に「そうじゃない彼」を主張する部分を見つけた。彼は変わり者だった。彼もわたしのことを変わり者だと言い、

 

「あなたはバックパッカーに向いてる。もっと旅をしたらいいのに」

 

そう言った。そうかもしれないと思った。その場では肯定も否定もしなかったが、結果としてその数年後にわたしはバックパッカーみたいな安旅を好んでするようになったから、その人の言った事が心に残っていたんだと思う。彼は、わたしの生き方をほんの少しだけ変えてくれた。

 

正直、わたしはもうその彼がどんな職業でどんな大学とかどうでも良かった。ただ、その人のことをもう少し知りたいし、帰国してからも付き合いを続けられたらいいなと思っていた。

 

だけど、言えなかった。

 

帰国してからのやり取りも、そっけないものだった。

 

みんな自分の生活に戻って行ったんだと思う。わたしはしばらくその人のことが頭から離れず、火のついていないろうそくをにぎりしめたままずっと、そのろうそくに火をつけるかつけないかで悩んでいた。

 

ずっと好きだった。

 

正直に言うと、つい最近までずっとだ。

 

人生で好きになった人、上位3人に入るくらい好きだった。(この言い方が私らしい)

 

だけど今は、あの人のことは小さな思い出の一つに変わったし、あの大事な経験は私の宝物だ。そしてなかばやけっぱちで帰国して、すぐ起業した。

 

その起業は波乱万丈ありつつもわたしを社長にしてくれた。そうなったことで、アルバイト時代の友人からはFacebookを通じて「偉くなったんだねぇ」と嫌味が送られてきた。借金の申し込みも来た。でも、青年海外協力隊のみんなからは「おめでとう!」「絶対あなたは何かやると思ってたよ!」「社長すごく似合うよ!」とメッセージが来た。


当時のわたしはすべてがわからなくなった。

自分が愛していた底辺の世界の優しさは嘘だったのかと。結局、誰かが上に上がることを良しとしないのかと。そしてエリートたちの無条件に人を祝福できる優しさって何なのだろうかと。

 

好きだった人からもメッセージが来た。

 

その内容はここには書かないけど、半分期待していた通りのもので、もう半分はわたしの思っていた内容じゃなかった。よくも悪くも、彼はわたしの肩書になんの興味もなかったんだ。中身の一部に、当時ほんの少し興味を持ってくれただけ。

 

出会い方が違ったら、また違う結末だったのかな。


でもそうしたら今のわたしはないよね。

だからきっと、あの恋はずっと思い出のままでいい。


今日は、誰にも話していない恋の話を書きました。

ご本人が読んでも、どうかやさしいスルーをしてくださいませ。好きだった、それだけだから。

 

当時のわたし。

 

 

それじゃあ、今日も良き日を!

鼓膜が破れるようなくしゃみをするおやじ、じじいについて

2018年の記事をピックアップして再掲載しています!


今日の更新は、じじいのくしゃみがうるさい件です。


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電車の中で、鼓膜が破れるかと思うようなくしゃみをするおやじがいる。じじいもいる。

 

「ぅえぇふぉ!!!」

「ぅあっふひょお!!!」

 

 

 

 

のような発音で、太字の部分が鼓膜振動ポイントだ。ものすごくうるさいし耳が痛くなるし、イライラする。

 

そして口を押さえていてもつばが飛んでいることがほとんどである。

 

こういうおやじは大抵、フケが落ちていたり、電車の中なのに鼻をほじったりしている。

 

このおやじは会社でどんなポジションにいるのだろうか?   周りとうまくやれているのだろうか?   じじいは孫に会わせてもらえているだろうか?

 

ちなみに風俗やってる頃は、この手のおやじは大得意だった。他の嬢に相手にされないので、ちょっと丁寧に接するだけで指名してくれるのであるw

 

しかし今は風俗嬢ではないので、こんなくしゃみを聞かされたくない。だから周りをよく見て電車に乗る。

 

ただそれだけなのだ。

 

あのくしゃみをするおやじ、じじいは何かの病気なんだろうか?   知っている人がいたらぜひおしえてほしいものである。

 

また明日!

 

【短文更新】鹿児島空港の「ちんこ団子」!!

2018年の記事をピックアップして再掲載しています!
今日の更新は短文ですが、ネタとして面白いです。


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鹿児島空港にて、面白いおみやげをみつけました。

 

まだ食べたことがないですが、ネタに買えば良かったと後悔していますw

 

 

 

 

次回行ったときは買おうかなと。いや、絶対これ普通の味するやつだよw   「普通……」ってポカーンとしてるサラリーマンの姿が目に浮かぶもの!!

 

それじゃあ、また明日!